安藤ナツ、殴られる。
前話から十日が経過した。
ナツは三十分ごとに機器のデータを記録用紙に手書きで記入すると言う作業に日々を追われていた。大きな設備であり、データの確認項目は五十を超える。データは三つある操作盤に分かれて表示されており、すべてを拾い上げるのに十分近くの時間を要した。
また、先輩社員が行った微調整の方法も記録しておく必要があり、肉体的な疲労は製造部の仕事よりも少なかったが、時間的な余裕は随分と減っていた。昼の休憩も一時間も取れるはずがなく、昼食を休憩所で食べると、直ぐに作業現場へと戻った。
先輩社員も忙しく、嫌味を言う暇もなく働いていた。ただし、イライラ具合は目に見えて増えており、製造部の作業員達に小さな改造や修理を頼む時の態度の横柄さはかなり増していた。
簡潔に言うと、改造は不完全だった。パソコン上の計算は所詮机上の空路運であり、現実と言う奴は思った通りに動きはしない。そう言うことだ。こう言ったことは珍しくもない。
だが、先輩社員は荒れていた。別に彼のミスと言うわけでもないし、もっと大きく構えていれば良いのに、とナツは思う。責任感が強いのは素直にすごいと思うが、この場合責任を取るのは会社のハンコを押した役員達であり、彼が焦った所で何が変わるわけでもない。
作業場事態の空気が悪い中、ナツは自分のミスに一つ気が付いた。と、言っても大した問題ではない。塗装した配管の上に、どっちに向かって中身が流れているかを示すシールを一枚、踏み付けてしまったのだ。まだ使おうと思えば、使える。だが、新品の設備に足で踏んだ痕が残るシールを張るのは気が引けた。
予備の品は休憩所にまだ十枚はある。一度工場を出て、休憩所にシールを取りに行けば問題はない。
「先輩。忘れ物をしたので、少しの間休憩所に戻ります」
操作盤内部を構っていた先輩社員の背中に声をかけ、ナツは出口を目指す。例え僅かな間でも、工場を離れる時は声をかけると言うのは、最低限のマナーであった。突然人がいなくなれば、事故の可能性も考えなければならないし、仮にも上司が部下の所在を知らないのは問題だ。いや、この先輩は別に上司でもないのだが。
「何を忘れたんや」
普段なら返事もしない先輩社員は、機嫌悪そうに呟いた。しかしその声色は何処か喜色がある。生意気なナツが『忘れ物』と言うミスを犯したのだ、ストレス発散に怒鳴りつけるチャンスを得たと思ったのだろう。
無論、ナツは小言を食らう覚悟をしていた。これは明確なミスであるし、それを叱るのは教育の一部だと言えるだろう。
悔しかった。そんな隙を晒す自分が許せなかった。
「矢印のシールです。直ぐに取って来ます」
「あんなもん、余裕があるやろ。どうして取りに行くんだ?」
「すいません。必要枚数しか持ってきていなかったので」
「なんで予備を持ってこんかったんや」
まさしく、その通りだ。必要枚数よりも一枚二枚大目に持って来ていれば回避できたミスだ。
「はい。申し訳ございません。すぐに取ってきます」
しかしこうもグダグダ言われるほどのミスだろうか? 時間に余裕がないのだから、さっさと取りに行かせて欲しい。ミスったのは自分だと言うのに、勝手なことを考えるナツであった。
そんな反省の色の無さが気に食わないのか、先輩社員は嬉々としてナツをねちねちと攻めた。
もはや日常茶飯事の行事であり、ナツは黙って耐えた。製造部の作業員達も同じで、「まーたやってるよ」と呆れた表情をしている。
が、今日は少し違いがあった。
「お前はもう少し、反省した顔はできんのか!」
先輩社員の機嫌が悪かったように、もう三週間もこの先輩社員に付き合っているナツの機嫌も相当に悪かった。
「…………反省した顔をして意味があるんですか?」
しなくても良い反論を、ナツが口にしたのだ。
「どんな顔していようと、反省している人間は反省しているし、反省していない奴は反省していませんよ。反省した顔をしていても、反省していない奴だっていますよ。大切なのは今後ちゃんと反省を生かせるのかってことじゃあないですか?」
苛立ちが口の滑りを良くした。意味がわかるような、わからないような、曖昧な屁理屈のような台詞はナツが好む所であり、小学生の時のディベート体験で女子を泣かせてしまい、同情によって負けたことがあるほどだ。
「大切なのは、ミスを今後にどう生かすかであって、一個人の表情の問題ではないんじゃあないですか?」
ミスをしておいてこの言いようである。が、正論と言えば正論。正論は正論故に反論が難しく、ここから飛んで来る反論が感情論であれば、もう勝負はついたようなものである。
が、意外なことに返って来たのは言葉ではなく、拳。ヘルメット越しに強い衝撃を受け、ナツは自分が殴られたのだと理解した。唐突な一撃にバランスを崩し、右側へとよろける。倒れるような無様は避けたが、元々注目を集めていた為に、殴られた瞬間は多くの人に見られていた。
「なんで殴ったんですか?」
ナツは直ぐに状況を理解すると、そんな質問をした。特に考えがあったわけではないが、ここで殴られたことを認めてしまうと、格付けが決まってしまうような気がしたのだ。
俗にいう『舐められる』と言う奴である。
思い返しても、若くて無意味な反論であった。
「言ってもわからん馬鹿は殴るしかない」
「それは人を殴る理由にはなりませんよ。常識的に考えれば、暴行罪ですしね」
この三週間で、先輩社員が『常識』と言うのを大切にしていることは承知していたので、その単語を強調するように、挑発するように言ってやった。
「ガキが生意気言うな!」
と、再び頭に衝撃が走る。重要なことだが、工場内ではヘルメットの着用が義務付けられている。落下物対策はもちろんのこと、閉所では頭を打つことが多いからだ。当然、丈夫に出来ているので、殴られたとしても大しては痛くない。バランスを崩して倒れはしたが、直ぐに立ち上がることができた。
ただ、むかつきは増すばかりだ。
「で?」
立ち上がると開口一番、恨みを言うでもなく、殴りかかるでもなく、ナツはなるべく何事でもなかったように軽く訊ねる。
「拳で仕事を伝えることができると思ってるんですか?」
「――――!」
何事か先輩社員がわめく。唾が飛ぶのが見えた。何を言っているのかはわからない。
「すいません。聞き取れませんでした。もう一回お願いします」
その姿が滑稽で、ナツはおちょくるように丁寧に訊ねる。予想通り、先輩社員は顔を真っ赤にした。襟首を掴まれたのは少々意外だったが、恐れる程のことはない。
これがゲームならば、殴って相手のHPをゼロにすれば良いのだが、社会と言うのはそうはできていないのだ。むしろ、HPがゼロにならないのであれば、ダメージは喰らった方が得だ。
暴力とは悪なのだから。また、悪い暴力を振るう人間もまた、悪である。
そして悪とは社会的な弱者であり、弱者は決して強者には勝てない。
二発も殴られた時点で、今回の一件の勝者は確定している。
あとはどれだけ、ナツが気持ちの良い終わり方をするかの問題だ。
『非暴力不服従』を貫きながらも、『心の中に暴力性があるなら、非暴力を口実に無気力を隠すより暴力的になったほうが良い』と言うガンジーの教えを守る為に、ナツは舌先三寸口八丁で先輩社員の自尊心を傷つけようと試みる。
「服が伸びるんで放してください」
「――!」
鼻息の荒い先輩社員。作業服の下の黒いインナーの襟元を気にしながら、ナツは声が震えない様に腹に力を籠めて続ける。
「なんですか? あ、殴れば俺の言うこと聞いてくれるんですか? そう言ってましたもんね。言って分からない馬鹿は殴るしかないんでしょ?」
台詞を言い終わるか否か、ナツの身体が後ろへと吹き飛んだ。両手で押されたのだと気が付くよりも早く、背中と地面が振れる。ヘルメットがなければ、後頭部を強く打ち付けていたことだろう。
少し、挑発が過ぎたか。散々煽っておいて、どの口が言うのかと言う話だが、他の社員の眼もあることだし、まさか投げ捨てられるとは思っていなかった。流石に蹴り飛ばされるのは、痛い。怒り狂う先輩社員が来る前に、立ち上がろうと、ナツは床に手を付く。
が、
「おい! いい加減にしろよ!」
第三者の介入でその必要はなくなった。
流石に見かねた製造部の作業責任者が先輩社員の肩に手を置き、無理矢理に進行方向を変えさせる。
「仕事先まで来てお前等は何をしとるんや!」
「すいませんでした」
立ち上がったナツは心にも思っていない謝罪を口にする。ここは素直に謝っておくのが、一番良いだろう。反省ではなく、打算の謝罪だ。自分が悪いなどとは、毛ほども思っていない。
「今日はもう、一緒に仕事できないだろ? 安藤は製造部の仕事を手伝う。それでいいな」
そう言うことになった。
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