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静寂の図書館で、今日も誰かが本より俺を見ている。

掲載日:2026/07/05

【静寂の図書館で、今日も誰かが本より俺を見ている】

第1話〜第12話


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【EP. 01】閉館五分前の居残り常連

〜毎日来るなら住んだらどうですか〜

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市立図書館の朝は静かだ。


開館前の空気は本の匂いがする。正確には紙とインクと、かすかな埃の混じった、他に代えがたい匂いだ。栞野文はその匂いが好きで、この仕事を選んだ節がある。二十四歳にして市立図書館の正規司書。両親には「もったいない」と言われたが、文本人にとって、これほど身の丈に合った職業は存在しなかった。


「おはようございます、栞野さん」


先輩司書の松岡さんが奥の書庫から顔を出す。五十代の穏やかな女性で、文を弟のように気にかけてくれる。


「今日も早いですね。……あ、また返却ポストに積んでますよ」


文は眉をひそめた。深夜返却ポストは夜間でも本を返せる便利な仕組みだが、雑に突っ込む利用者が後を絶たない。本は丁寧に扱ってほしい。ページが折れる。表紙が傷む。文にとって本を雑に扱う人間は、それだけで信頼度が三十パーセント下がる。


返却ポストの本を整理していると、一冊の本に小さな紙が挟まっていた。


——《来週またお借りします。ありがとうございました》


丸みのある、ていねいな文字だった。文は少し手を止めてその紙を眺めた後、そっと本の扉に戻してカウンターに置いた。


開館すると利用者が入ってくる。老夫婦、小学生、スーツの男性。文はカウンターで返却処理をこなしながら、静かな館内を眺める。これが一番落ち着く時間だ。人間が少し苦手、と言っても、本を読む人間は好きだ。本の前では誰でも少し、静かになる。


午後になると、一人の女性が入ってきた。


文は思わず視線が止まった。


長い黒髪、少し大きすぎる眼鏡、くたびれたニットのカーディガン。抱えている本の量が尋常ではない。片腕に五冊、もう片方の腕に三冊、肩には鞄が二つ。よろよろしながらもはっきりした足取りで、哲学コーナーに向かっていく。


彼女はそのまま三時間、一度もトイレに立たずに読み続けた。


閉館十五分前のアナウンスが流れる。大半の利用者が荷物を片付け始める中、彼女だけがページをめくり続けていた。


「……あの」


文がそっと近づく。


「閉館五分前です」


女性がゆっくり顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が、焦点を現実に引き戻すように文を見る。


「……五分。それで十七ページ読めますね」


「読めません」


「司書さんは意地悪ですね」


「司書さんは閉館時間を守るものです」


彼女は本を閉じた。栞を丁寧に挟んで、表紙を指先でなぞってから棚に戻す。その所作は思いのほか美しかった。


「また明日来ます」


「どうぞ」


そう言って文はカウンターに戻った。閉館作業をしながら、彼女が去っていくのを横目で見送る。


翌日、彼女はまた来た。


翌々日も来た。


一週間後、文はとうとう「すみません、お名前を伺ってもいいですか」と訊いた。利用者カードを作りましょうと言うためだったが、彼女はわずかに口の端を持ち上げた。


「神代ミオです。……やっと訊いてくれましたね」


「……え?」


「一週間待ちましたよ」


文は少し面食らいながら、利用者カードの入力画面を開いた。神代ミオ、二十一歳、大学三年。哲学専攻。


なるほど、と文は思った。だから難解な本ばかり読むのか。


「よろしくお願いします、神代さん」


「こちらこそ、栞野司書さん」


(……なんで名前を知ってるんだ?)


文はカウンターのネームプレートに視線を落とした。《栞野 文》と書いてある。なんだ、そうか。当たり前だ。


でもなぜか、少し耳が熱かった。



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【EP. 02】着物美人と週に一度の約束

〜その栞、誰かへのメッセージですか〜

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木曜日は決まってその人が来る。


文が気づいたのは着任して三ヶ月目のことだった。毎週木曜日の午前十時ごろ、着物姿の女性が一人、ふらりと入館してくる。季節に合わせた着物を着こなし、髪を緩くまとめ、白い足袋の足音を立てずに歩く。本を二冊ほど返却し、新しい本を二冊借りていく。それだけだ。カウンターで交わす言葉はいつも最小限。でも決して無愛想ではなく、ていねいな笑顔があった。


名前は古書堂まどか。二十二歳。利用者カードによれば、住所はここから徒歩五分ほどの和菓子屋だ。


「古書堂さん、返却ありがとうございます」


「はい。……あの、司書さん」


まどかがわずかに躊躇してから、返却した本を指さした。


「挟まっていたものは……お手元にありますか?」


文は少し首を傾けた。返却された本を開く。見返しに一枚の紙が挟まっていた。


——《九月の夜長、この本と過ごしました。よい本でした》


また、あの丸い文字だった。文はそれがまどかのメモだと気づいた。つまり、先週から挟まっていたメモは彼女のものだったのか。


「……これを残していかれるんですか?」


「はい。次に借りた方への、ほんの挨拶みたいなものです。嫌でしたら止めますが」


「いえ、嫌ではないですが……」


(規則上は問題ない。本への書き込みでもないし。でも……)


「次の方が気づかなかったらどうするんですか」


「気づかなかったら、それはそれで」


まどかはふわりと微笑んだ。文はなぜかその笑顔の前で言葉が見つからなくなった。


「実は……もう三年続けていまして」


「三年」


「はい。でも一度だけ、返事が来たことがあるんです」


文は目を丸くした。まどかは少し頬を染めながら続ける。


「前に司書さんが担当されていた本の、《よい本を紹介してくれてありがとう》って。手書きで」


文は一瞬黙った。松岡さんかもしれない。でも確認することはできない。


「素敵な取り組みですね」


気づいたら言っていた。まどかが目を少し見開いた。


「……ありがとうございます。そう言ってもらえたのは初めてです」


文は少し慌てて視線を外した。コンピュータの画面を見るふりをして、キーボードを叩く。


「今週はどちらをお借りになりますか」


「ふふ。……では、司書さんのおすすめをお願いしてもよいですか」


文はしばらく考えた後、書棚に向かった。一冊、また一冊と手に取り、最終的に一冊を選んで戻ってくる。


川端康成の『雪国』だった。


まどかはその表紙をしばらく見つめ、それから文を見た。


「……栞野司書さんは、どんな本が好きなんですか」p>


「静かな本が好きです」


「……素敵ですね」


まどかは本を大切そうに胸に抱えて、足音を立てずに出ていった。


文は彼女が去った後、ふと気づいた。


(来週、返ってきたこの本に、何が挟まっているんだろう)


木曜日が、少し待ち遠しくなった。



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【EP. 03】活字が読めない陸上少女の挑戦

〜本より速く走れるって言ったのは誰ですか〜

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文の日常に異変が起きたのは、十月に入ってすぐのことだった。


「あのっ」


ガラッと扉を開けて入ってきた女性が、カウンターに向かって駆けてくる。館内で走らないでください、と言おうとした瞬間、彼女は急ブレーキをかけて文の目の前でぴたりと止まった。


速い。本当に急ブレーキが上手い。


「すみません! 本、借りたいんですけど!」


「……はい、どうぞ」


「でも、どれ借りていいかわかんないんですけど!」


元気がいい。そして困っている。文は少し目を細めて彼女を見た。


ショートカットの黒髪、日焼けした肌、がっしりした足首。大学のロゴが入ったジャージを着ていて、背中には部活のバッグを背負っている。エネルギーの塊みたいな人間だ。


「何かご要望はありますか」


「えと……国語の授業で読書感想文書かなきゃいけなくて。でも本ってあんまり読んだことなくて。活字苦手で」


「活字が苦手な方向けの本もありますよ。文字が大きい本とか、絵が多い本とか」


「えっ、そんなのあるんですか!?」


目を輝かせる。文は彼女を案内して、読みやすい小説のコーナーへ向かった。


「薄くて、文字が大きくて、話が面白いもの……」


文が棚を見ながら考えていると、彼女が隣に並んで同じように棚を見ていた。身長は文とほぼ同じくらい。文は無意識に少し横にずれた。


「あの」


「はい」


「司書さんって、一日何冊くらい読むんですか」


「仕事中は読みません。利用者の方の本を管理するのが仕事なので」


「えー。本に囲まれてるのに読めないんですか、かわいそう」


「……そういう仕事です」


一冊抜き出して彼女に渡す。重松清の『ナイフ』だ。短編集で読みやすく、感想文も書きやすい。


「これ……難しくないですか」


「最初の話だけ読んでみてください。合わなかったらまた来てください」


彼女はしばらく裏表紙を読んでから、えいと決意した顔で本を抱えた。


「借ります! ……あ、カード作らないといけないですよね」


「はい」


カウンターに戻って利用者登録をする。橘レイ、二十歳、大学一年生。陸上部所属。


「よろしくお願いします、橘さん」


「よろしくです! ……ねえ、司書さんの名前は?」


「ネームプレートに——」


「栞野文さん。ふみさんって呼んでいいですか」


「……栞野さんでお願いします」


「えー。じゃあ文さんで」


「……どちらでも」


諦めた文の顔を見て、レイはにっと笑った。太陽みたいな笑顔だった。


一週間後、レイが戻ってきた。本を返しながら「全部読みました! 感想文も書けました! 次は何がいいですか!」とまくし立てる。


(活字が苦手、ではなかったのか?)


「……面白かったですか」


「めっちゃ面白かったです! 泣きました!」


文は少し驚いた。そして、少し嬉しかった。



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【EP. 04】禁帯出の本と不法侵入者(予備軍)

〜閲覧室で寝ていい理由はありませんよ〜

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禁帯出コーナーには鍵付きのガラスケースがある。


明治時代の地誌、戦前の文芸誌の復刻版、手書きの民話集。どれも貸し出しはできないが、館内での閲覧は可能だ。文はそのコーナーの管理も担当しており、週に一度、状態確認と防虫処理を行う。


ある日の夕方、閉館作業をしていた文は、閲覧室の奥で人影を発見した。


丸テーブルに突っ伏して、眠っている。


黒縁眼鏡が少し曲がっている。ボブカットの黒髪。手の横に禁帯出の和綴じ本が開かれていた。


「……すみません」


文が声をかけると、女性がびくっと顔を上げた。眼鏡が鼻からずり落ちる。それを直しながら周囲を確認し、文を見て、一瞬固まった。


「……閉館、ですか」


「五分前です。——そちらの本、禁帯出です」


「わかってます。ちゃんと館内で読んでました」


「寝ながら読むのは閲覧の範疇に入らないかと」


「……少し休んだだけです」


女性は本を丁寧に閉じ、ガラスケースのそばの返却台に置いた。手つきが慣れている。それほど頻繁に来ているということか。


「いつもここで読んでいるんですか」


「ここにしかないので。大学図書館には入れないんです」


「どちらの大学ですか」


「文学研究科の院生です。白川ナルミといいます。……利用者カードは持ってます」


ナルミはカードをカウンターに差し出した。確かに登録がある。文はデータを確認しながら、彼女の来館記録を見た。


月に八回から十回。定期的に来ている。


「何の研究をされているんですか」


「近代初期の女性文学者。……この民話集に、ある作家の手稿が混じっているという説があって、確認したいんです」


文は少し関心を持った。手稿の混入。それは確かに研究価値がある。


「先生には相談されましたか」


「してます。でも先生は否定的で、自分で確認したくて」


「……わかりました。ただ、閉館時間はお守りください」


「はい。……すみません、寝てしまって」


ナルミが立ち上がって荷物をまとめる。大きな本が五冊ほどバッグに入っていた。それを軽々と担ぐ。


「司書さんって、郷土資料に詳しいですか」


「ある程度は」


「では……また相談してもいいですか」


「利用者のご相談はカウンターでお気軽に」


ナルミはわずかに頬を緩めた。眼鏡の奥の目が少し、温かくなった気がした。


「……ありがとうございます、栞野司書さん」


(なぜみんな名前を知っているんだ。ネームプレートか。そうか)


文はナルミが出ていった後、禁帯出コーナーに戻って和綴じ本を確認した。


ページの間に、小さな付箋が挟まっていた。


——《この頁の記述、明らかに文体が異なります。要確認》


文は少し考えてから、付箋をそっと抜き取った。明日、ナルミに返そう。



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【EP. 05】書架整理とハプニングの法則

〜脚立から落ちる人はなぜ俺の方向に落ちるのか〜

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月に一度、書架の整理と配架替えがある。


文は脚立を使って高い棚の本を取り出し、並び替え、戻す。単純作業だが、本の重さが積み重なると腕に来る。午後三時ごろ、文が脚立の中段に立って上部棚の点検をしていると、下から声がした。


「栞野司書さん、上に『哲学原論』の第三巻ありますか?」


ミオだった。今日も来ていた。


「確認します」と文が答えて棚を見ていると、通路を別の利用者が本を山積みにして通り過ぎた。その本の山が脚立の脚に軽く当たった。


ガタッ。


脚立が揺れた。文が咄嗟にバランスを取ろうとしたが、反対側に重心が傾き——


「あっ」


落ちる、と思った瞬間、柔らかいものに受け止められた。


正確には、ミオの上に落ちた。


床に二人で倒れ込む形になって、文はミオを覆い被さるような体勢になっていた。顔が、本当に近い。ミオの眼鏡が少し曲がっている。黒髪が床に広がっている。


一秒。


二秒。


「……痛いですか」


ミオがぽつりと言った。


「あなたの方が痛いでしょう」


「少し」


「すみません」


文は素早く起き上がった。耳が猛烈に熱い。ミオも起き上がって、眼鏡を直す。頬がわずかに色づいていた気がするが、文は見なかったことにした。


「……怪我は」


「ないです。……腰を打ちましたが」


「本当に申し訳ありません」


「謝らなくていいです。司書さんが脚立から落ちた方が大変でしたし」


ミオはクールに言って、乱れた髪を手で直した。文は彼女の腰を打ったところが気になって視線を向けかけ、慌てて正面に戻した。


「……アイシングのものは保健室に——いや、ここは図書館だ」


「大丈夫ですよ」


ミオはもう一度眼鏡をかけ直して、文をまっすぐ見た。


「それより、第三巻」


「……ありました。今お取りします」


文は脚立を安定した位置に置き直してから、慎重に登った。本を取り出してミオに渡す。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、受け止めてもらってありがとうございました」


「……別に」


ミオが本を抱えてテーブルに向かいながら、ほんの少し口元を動かした気がした。


(笑った?)


文は脚立を片付けながら、心臓が少し余分に跳ねているのに気づいた。これは驚いたせいだ。脚立から落ちたせいだ。そう言い聞かせながら、書架整理を再開した。



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【EP. 06】雨の日の着物と相合い傘

〜傘の骨が折れると距離が縮まる物理法則〜

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木曜日に雨が降った。


まどかはそれでも来た。着物の上に和風の雨コートを羽織り、花柄の傘を持って入ってくる。傘立てに傘をさしながら、文のカウンターに気づいて会釈した。


「雨の中、大変でしたね」


「いえ。雨の日の図書館は好きなので」


「そうですか」


「雨音と紙の音が重なって……静かなのに賑やかな気がして」


文はその表現を、少し気に入った。


まどかが本を選んでいる間、雨が強くなった。午後になって暴風雨になり、窓が揺れた。閉館時間になっても雨は止まず、まどかは傘立てで傘を広げて外を見ていた。


「大丈夫ですか」


「あの、少し待てば止むかと思いまして……」


「着物が濡れると大変ですよね」


「はい。これ、お気に入りなので」


文は少し考えてから、ロッカーから自分の傘を取り出した。


「よければどうぞ。明日でも来週でも、返してもらえれば」


「え、でも……」


「僕は自転車なので、どのみちあまり意味がないですし」


まどかが文を見て、少し迷ってから受け取った。


「ありがとうございます。……では、よかったらご一緒に入りますか。少しだけ方向が同じかもしれないので」


「えっ」


「荷物持ちくらいはできますよ」


文は断る理由を探したが、見つからなかった。自転車に乗れば確かに雨に濡れる。まどかの方向が同じなら傘を持ちながら少し同行できる。


二人で大きな傘に入って外に出た。まどかが端に寄り過ぎていて、逆側の肩が少し濡れている。


「もっと中に入ってください」


「えっ、でも……」


「着物が濡れます」


まどかが少し中に入ってきた。距離が近い。和装の独特の香りがする。白粉か、何かの花か。


しばらく歩いたところで、突風が吹いた。


傘が煽られ、骨が一本折れた。


「あっ」


バランスを崩したまどかが文の腕を掴んだ。そのまま二人の距離がさらに縮まった。まどかの頭が文の肩のあたりにある。


「……大丈夫ですか」


「は、はい。着物の裾が……あの、踏まれなかったですか」


「踏んでいないと思いますが」


「よかった……」


まどかがほっとして腕の力を緩めた。文はその間、意識的に呼吸を整えていた。


まどかの家の前まで送って、傘を返す。


「司書さん、本当にありがとうございました」


「来週、傘は気にしないでいいですよ。こちらこそすみません、傘が折れてしまって」


「いいえ。……すごく、温かかったです」


まどかがそう言って、家の引き戸を開けた。


文は自転車を押しながら雨の中を帰った。ずぶ濡れだったが、なぜか気分は悪くなかった。


(温かかった、は傘のことだよな)


雨の音が少し、賑やかな気がした。



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【EP. 07】読書感想文とリベンジ

〜泣いたから読めるようになりましたは理論じゃない〜

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「また来ましたっ!」


レイが元気よく飛び込んできた。今日はジャージではなく、カジュアルな私服だ。白のTシャツに短パン、スニーカー。走ってきたのか、顔がわずかに赤い。


「本、返しに来ました。あと次の本を教えてほしいです!」


「感想文は書けましたか」


「書けました! 先生にかなりいい評価もらえました!」


「それはよかった」


文は少し微笑んだ。本当に微笑んだ。珍しいことだと自分でも思う。


「次は何がいいですか? もっと長いのでも読めそうな気がしてきました!」


「一冊読んだだけでそう思いますか」


「一冊でも泣けたんだから余裕です!」


自信満々のレイに、文は少し呆れた顔をしながらも棚を見て回った。


「何か興味のある分野は」


「走ることに関係あること!」


「……三浦しをんの『風が強く吹いている』はどうですか。駅伝の話ですが」


「駅伝か……陸上じゃないけど、走るのは走るか!」


文は本を取り出してレイに渡した。四百ページ超の作品だ。


「長いですよ」


「全然! タイム縮めるのに比べたら」


なるほど、と文は思った。この人は根性がある。活字が苦手と言っていたのに、一週間で短編集を読んだのだから。


「あのー……ちょっと聞いていいですか」


レイが本をカウンターに置いて、文をじっと見た。


「司書って、大学で何を勉強するんですか」


「司書資格のための科目と、図書館情報学が主ですね」


「楽しかったですか、大学」


「……嫌いではなかったです」


「文さんって、本当に本が好きなんですね」


「まあ、そうですね」


「なんで好きなんですか」


文は少し考えた。この質問に今まで真剣に向き合ったことがなかったかもしれない。


「本の中では、静かでいられるから、かな」


「静かでいられる……」


「人間と話すのは、少し気を使うんです。本は気を使わなくていい」


レイがしばらく黙っていた。それから、まっすぐ文を見た。


「私とは気を使いますか」


「……少し」


「正直な人ですね」


レイは笑った。さっぱりとした、気持ちのいい笑い方だった。


「じゃあ慣れてもらえるよう通い続けますね!」


「……是非、本を読むために来てください」


「はーい」


返事は軽い。でも文はそれが嫌いではなかった。



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【EP. 08】稀覯本の謎と、共犯者の夜

〜残業して二人きりは規則上問題があります〜

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ナルミが正式に研究相談を申し込んできたのは、十一月の初旬だった。


「郷土資料の精密調査をしたいんです。できれば閉館後に、じっくり時間をかけて」


「閉館後というのは……」


「申請書を出します。正式に特別閲覧の許可を取ります。松岡主任にも確認済みです」


用意周到だった。文は少し感心した。


許可が下りて、ある金曜日の夜、文とナルミは閉館後の図書館に残った。館内の証明を半分落とした閲覧室で、ナルミが禁帯出の和綴じ本を開く。文はその横で記録係を担当する。


「ここのページです。文体が他と明らかに違います」


「確かに」


ナルミの指先が丁寧にページをめくる。細い指だ。研究者の指。


「この崩し字の癖が、明治後期の某作家の手稿と一致するんです。でも先生は……」


「懐疑的なんですか」


「根拠なく否定されました。でも私は確信があって」


文は記録用のノートを取りながら、ナルミの横顔を見た。眼鏡の奥の目が真剣だった。この人は本気で研究をしている。


二時間が過ぎた。ナルミが書類を整理していると、突然停電した。


「っ……!」


完全な暗闇になった。文は咄嗟に立ち上がったが、近くに誰かがいることに気づいた。ナルミの声がする。


「電気……」


「ブレーカーです、少し待って——」


立ち上がった拍子に、ナルミと衝突した。


暗闇の中で、互いの顔が近い位置で向き合っている。ナルミの息遣いが聞こえた。文は固まった。


「……す、すみません」


「……私こそ」


文はおそるおそる後ずさって、スマホのライトを点けた。ナルミの顔が薄明かりの中に浮かびあがる。頬が赤かった。


「ブレーカーを見てきます。資料を押さえていてください」


「は、はい」


文がブレーカーを戻すと照明が戻った。閲覧室に戻ると、ナルミが資料を押さえながら眼鏡をずらして目をこすっていた。


「驚きましたね」


「……少し」


「怖かったですか」


「怖くは……なかったです。ただ、暗いのが苦手で」


ナルミがぽつりと言って、また眼鏡をかけ直した。


「研究、続けますか」


「……はい。もう少しだけ」


二人は再び作業を再開した。今度は互いの距離が、少しだけ近くなっていた。


深夜十時、ナルミが帰り際に振り返った。


「栞野さん、今日はありがとうございました。……これ」


ナルミが小さな紙袋を差し出した。包みを開けると、駅前のベーカリーのクッキーが入っていた。


「お礼です。甘いものお嫌いでなければ」


「……好きです。ありがとうございます」


ナルミは軽く頭を下げて、夜の駐輪場へ消えていった。文はクッキーの袋を持ったまま、しばらく動けなかった。



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【EP. 09】ミオの問い、文の答え

〜哲学的な質問に司書はどう答えるべきか〜

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ある日、ミオが本を読む手を止めて文のカウンターに来た。珍しいことだった。


「質問があります」


「どうぞ」


「『愛』と『執着』の違いは何だと思いますか」


文は手を止めた。


(哲学的な相談か。資料案内の範疇内……だろうか)


「哲学的な定義を求めているのか、文学的な定義を求めているのかによって変わりますが」


「司書としてではなく、個人として答えてください」


「……個人として」


文は少し考えた。本棚の背表紙を眺めながら。


「執着は自分のために相手を求める。愛は相手のために自分を変えようとする、かな」


ミオが小さく目を見開いた。


「……面白い答えですね」


「何かの本で読んだかもしれないです。オリジナルではないかも」


「いえ、答え方が面白いと言いました。自分を変えようとする、という能動的な表現を使ったことが」


ミオが手帳にメモを取りながら言う。文はなんとなく、自分がレポートの材料にされている気がした。


「……参考資料ですか、私は」


「否定しません」


正直な人だ。文は苦笑した。


「司書さんは恋愛したことがありますか」


「……急ですね」


「哲学的な研究のためです」


「哲学の研究が恋愛調査になるんですか」


「フロムの愛の理論を実証したいんです。現代の事例として」


文は額に手を当てた。


「……あまりないです」


「あまり、ということは少しは」


「一度だけ。大学のときに」


「どうなりましたか」


「相手の方が大学院に進学して遠くに行きました」


「それは別れを選んだのですか、それとも関係が自然消滅したのですか」


「……後者です」


ミオが手帳に書きながら、少し頬を膨らませた。


「自然消滅、ですか。それは……執着もなかったということ?」


「……愛だったかもわかりません」


「正直ですね」


「貴方が正直に答えさせるんですよ」


ミオが手帳を閉じて、少し唇を緩めた。


「今度は、私の答えを聞きますか」


「え?」


「愛と執着の違い。私の考えでは——」


「閉館五分前です」


文はアナウンスのボタンを押した。ミオが軽く噴き出した。初めて、はっきり笑った。


「……意地悪ですね」


「業務です」


「明日、聞かせますから」


(明日が少し楽しみになっている。これは何だろう)


文は閉館作業をしながら、少し静かに考えた。



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【EP. 10】栞が届けた言葉

〜感動的な話〜

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十一月の中旬、まどかから借りていた本が返ってきた。


文は返却処理をしながら、何となく本を開いた。


本の中ほど、見返しのページに、まどかの字で書かれた小さなメモが挟まっていた。


——《この本を選んでくれた人へ。雪国を初めて読みました。島村の身勝手さが、不思議と美しく見えた。冬が来たら、また読み返したいと思います。ありがとうございました》


文は少し、動けなくなった。


このメモは次の利用者へのものだ。でも次の利用者への橋渡しを、文が選んだ本がしている。ということは——


(間接的に、僕への言葉でもある)


そんなことを考えること自体が的外れかもしれない。でも、文は丁寧にそのメモを本に戻した。次に借りる人が読んでくれるように。


その日の夕方、レイが血相を変えて駆け込んできた。


「文さん! 大変なんです!」


「走らないでください」


「それどころじゃなくて! チームメイトが、練習中に骨折して……入院することになって。でも来週大事な記録会があって……」


レイの目が潤んでいた。文は少し面食らった。なぜ図書館に来た?


「…あの」


「本があればって思って……誰かがこういう状況に立ち向かった話とか……わかんないけど……」


レイが声を落とした。肩を丸めて、少し小さく見えた。


文は書棚を見た。少し歩いて、一冊抜き取る。


「田中芳樹の『銀河英雄伝説』……は長すぎるか」


考え直して別の棚へ。


「乙武洋匡の『五体不満足』。怪我や困難に向き合った実話です」


もう一冊。


「あと……これは小説ですが、誰かのために走ることについて、丁寧に書いてある」


渡したのは、最初にレイに貸した本の著者・重松清の別の作品だった。


レイが受け取った。表紙を見て、少し唇をぎゅっと結んだ。


「……文さんって、いつも本で答えるんですね」


「言葉より本の方が、ちゃんと届くと思うので」


「……うん」


レイは本を胸に抱えた。


「ありがとうございます。……行ってきます」


図書館を出ていくレイの背中は、さっきより少し大きく見えた。


文は彼女が出ていったドアを見つめた。


(言葉より本の方がちゃんと届く、か。……本当にそうかな)


今日初めて、少し自分の答えに迷った。



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【EP. 11】書庫の秘密と研究者の涙

〜証明される日は来るのか〜

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ナルミが珍しく早い時間に来た。開館直後、誰もいない閲覧室に入ってきて、カウンターの文に深く頭を下げた。


「栞野さん、……お礼を言いに来ました」


「どうしたんですか」


ナルミが眼鏡を外して、目元を押さえた。


「先週の調査でメモした写真を、別の研究者に確認してもらったんです。そうしたら……やはり手稿である可能性が高いという意見をもらえて」


「本当ですか」


「まだ確定ではないですが……先生への反論材料が揃いました」


ナルミの声が震えていた。文は少し目を伏せた。


「一人で調べ続けていたんですね」


「先生に否定されてから、半年以上……誰にも話せなくて」


「それは辛かったですね」


「……司書さんが残業に付き合ってくれなかったら、記録も残せませんでした」


文は少し困った。別に特別なことをした気はない。手続きに従って許可を出し、記録を取っただけだ。


「図書館の資料を活用してもらえれば、それが仕事ですから」


「そういうふうに言うんですね、栞野さんは」


「そういうふうに、とは?」


「自分の功績にしない。全部『仕事』にする」


ナルミが眼鏡をかけ直しながら、わずかに微笑んだ。


「……でも私は、個人としての栞野さんに感謝しています」


「そう言ってもらえると、少し嬉しいです」


文は正直に答えた。ナルミが少し目を見開いた。


「栞野さんって、意外と素直ですね」


「…意外と?」


「いつも淡々としているから、感情がないのかと」


「あります、一応」


ナルミが小さく笑った。


「……これからも、調査に付き合ってもらえますか」


「申請書を出してください」


「はい。……あと、個人的にも」


文は少し沈黙した。


「……それは、どういう意味でしょうか」


「本の相談を、仕事以外でも聞いてほしい、ということです。……帰り道が同じ方向なので」


ナルミの声が少し小さくなった。眼鏡のつるを指先で触っている。


(これは……研究相談の延長線上ではないな、たぶん)


「……わかりました。同じ方向のときは」


ナルミが静かに、でも確かに嬉しそうに頷いた。



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【EP. 12】クリスマスの図書館と四人の栞

〜誰かが俺のために本を選んでいる〜

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十二月二十五日。図書館はクリスマスだろうと通常通り開館する。


文はいつもより少し早く来て、館内の整頓をしていた。世の中はクリスマスだが、図書館は静かだ。それがむしろ心地よい。


午前中にミオが来た。珍しく本を手に持っていた。


「これ、返します。……それと」


ミオが本を差し出しながら、もう一方の手に小さなものを持っていた。しおりだった。革製の、細い栞。


「司書さんに。本のお礼です」


「……え?」


「毎日閉館まで居させてもらっているお礼。仕事と言わないでください、今日は受け取ってください」


文はしばらく手に持ったまま、栞を見た。


「……ありがとうございます」


ミオが少し頬を赤くして、テーブルに向かった。


午後、まどかが来た。着物は冬のもの、深い藍色。手に小さな包みを持っていた。


「栞野司書さん、少し早いお正月の挨拶ですが……うちの店の和菓子です。よければ」


「ありがとうございます。……いただいてもいいんですか」


「是非。……いつも本を選んでくださるお礼です」


夕方、レイが走り込んできた。


「文さんっ! 記録会、チームで完走できましたっ!」


文は思わず立ち上がった。


「骨折したチームメイトは?」


「応援に来てくれて……途中で泣き出して、それで余計燃えて……!」


レイの目が潤んでいた。


「よかったです」


「文さんが本くれたから。あの本読んだら走れる気がしてきて」


「……本の力ですよ」


「文さんの力でもあると思います」


文は何も言えなかった。


閉館間際、ナルミから短いメッセージが届いた。


——《先生が仮説を認めてくれました。論文に進めます。栞野さんのおかげです。良いお年を》


文は返信を打った。《おめでとうございます。来年も良い研究を》


閉館作業を終えて、文は暗くなった図書館をゆっくり歩いた。


今日、四人が来た。ミオ、まどか、レイ、ナルミ。それぞれの理由で、それぞれの形で。本を通して、ここに来ていた。


(本より俺を見ている、なんて。……本当にそうだろうか)


文は明かりを消しながら、ほんの少し微笑んだ。


革の栞を、自分の愛読書に挟んだ。


図書館の夜は、静かで、暖かかった。

【静寂の図書館で、今日も誰かが本より俺を見ている】

第13話〜第24話(1期完)


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【EP. 13】新年の図書館と初詣ルート問題

〜なぜ全員同じ神社に行くのか〜

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一月四日、図書館は新年の開館を迎えた。


文は年始の挨拶メッセージを館内掲示板に貼りながら、今年も静かな一年になりますようにと思った。去年の暮れに四人に何かと関わることになったが、新年はまた穏やかに本と向き合う毎日になるだろう。そう思っていた。


午前十時の開館と同時に、ミオが入ってきた。


「あけましておめでとうございます、栞野司書さん」


「……おめでとうございます」


「年末年始もずっと本を読んでいました」


「それはよかったです」


「栞野さんは?」


「僕もずっと本を読んでいました」


ミオが少し目を細めた。


「似た年末年始ですね」


「……そうかもしれません」


十一時に、まどかが来た。今年最初の木曜日だ。


「栞野司書さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」


「こちらこそ。初詣はもう?」


「元日に。……地元の神社に」


「どちらへ?」


まどかが神社の名前を言った。文の自転車で十分ほどの、山の裾野にある小さな神社だ。


昼過ぎにレイが飛び込んできた。


「明けましておめでとうございます! 初詣報告に来ました!」


「報告の必要は……」


「あの山の神社行ってきましたよ! 速く走れるようにお願いしてきました!」


文は少し止まった。同じ神社だ。


夕方、ナルミが来て言った。


「あけましておめでとうございます。元日にあの山の神社へ参りました。論文がうまくいくよう」


文は今度こそ完全に止まった。


(四人全員、同じ神社に行っている。しかも元日に。……そして誰も互いのことを知らないまま、同じ場所でお参りしている)


文は窓の外の冬空を見た。


「栞野さん、どうかしましたか」とナルミが訊いた。


「……いえ。今年もよろしくお願いします」


文は何も言わなかった。言えるわけもなかった。


その夜、文も自転車で山の神社に行った。閉館後、一人で。


賽銭を入れて、柏手を打って、少し考えてから願った。


(今年も、皆が良い本と出会えますように)


それだけを願って、坂を下りた。



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【EP. 14】ミオの論文と真夜中の哲学

〜フロムを引用する人はなぜ核心を突くのか〜

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ミオが締め切りに追われているらしかった。


いつもは静かに本を読んでいるのに、今日はノートを広げて何か書き込んでいる。消して書いて、また消している。閉館五分前のアナウンスが流れても気づいていない。


文が近づいて声をかけると、ミオが顔を上げた。目の下に薄く隈がある。


「……論文の締め切りですか」


「来週です。……うまくいかなくて」


「どのあたりで詰まっていますか」


ミオが少し迷ってから、ノートを見せてくれた。愛の理論に関する論文だった。フロムの議論を現代の事例に適用しようとして、結論の手前で止まっている。


「現代人の愛の形が、フロムの定義から逸脱しているのか、それとも拡張されているのかが決まらないんです」


「拡張と逸脱は何が違うんですか」


「逸脱は本質を失っている。拡張は本質を保ちながら形が変わっている」


「では、本質とは何かを先に決めれば、答えが出ますね」


ミオが少し固まった。


「……そうか」


「フロムが定義した愛の本質は何でしたか」


「与えること。能動的な行為としての愛」


「では現代の愛の形に、与えることは残っていますか」


ミオが静かに考えた。文は答えを急かさなかった。


「……残っています。形が変わっても」


「では拡張、ということになりますね」


ミオが急いでノートに書き始めた。文は少し下がって待った。


三分後、ミオが顔を上げた。


「……ありがとうございます」


「本の貸し出し手続きなら業務内ですが、論文相談は……」


「仕事ではないと言いたいんでしょう。でも助かりました」


ミオが立ち上がって荷物をまとめながら、ちらりと文を見た。


「栞野さんって、哲学の素養がありますね」


「図書館学の中に分類論があって、概念の整理は得意なのかもしれません」


「それだけじゃないと思いますが」


ミオは何か言いかけて、止めた。


「……来週、論文提出したら報告しに来ます」


「どうぞ」


「お礼は何がいいですか」


「結果を教えてもらえれば十分です」


「……相変わらず、要求が少ないですね」


(要求が少いのではなく、何を望めばいいかわからないだけだ。でも、それは言わなくていい)


文は閉館作業に戻った。ミオの足音が遠くなって、ドアが閉まった。


静かな図書館に、フロムの残像が漂っている気がした。



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【EP. 15】着物の帯と不可抗力

〜帯が解けるのは映画だけの話ではなかった〜

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二月の木曜日、まどかが少し急ぎ足で来館した。いつもの優雅さが、今日はわずかに崩れている。


「栞野司書さん、あの——少しよろしいですか」


「どうしましたか」


まどかが困った顔で、自分の背中あたりを指した。


「帯が……自転車のかごに引っかかってしまって。結び目がおかしくなってしまったようで」


見ると、確かに帯の後ろ側が少し緩んで、端がはみ出している。


「女性スタッフを呼びましょうか」


「松岡さんは今日お休みと聞いて……あの、栞野さんでも大丈夫ですか。難しければ自分でやります」


「少し待ってください」


文は書庫に向かって、松岡さんが残していった和装マニュアル(地域文化行事用)を取り出した。着物の帯の直し方が図解されている。


「……わかりました。やってみます。失礼します」


まどかが少し背を向ける。文はマニュアルを片手に、もう片手で帯の端をそっと持った。和装の帯はいくつも層があって、引っかかった部分を丁寧に戻さないといけない。


「……少し、動かしますね」


「はい」


まどかの声がわずかに緊張している。文も当然、緊張していた。背中に触れながら帯を直すという状況が、これほど気を使うとは思わなかった。


手を動かすたびに、まどかの着物の生地の感触が指先に伝わる。上質な絹だ。少し動くと、まどかの髪がかすかに揺れて、花のような香りがした。


「……大丈夫ですか」


「はい、あの……栞野さんの手、温かいですね」


文は指を止めた。


「……続けますね」


「はい」


帯を元の形に整えて、端を押さえる。マニュアル通りの手順でなんとかなった。


「……直りました」


まどかが振り返って、鏡で確認した。それから文を見て、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に助かりました」


「いえ……」


「男の方に見ていただくのは恥ずかしかったのですが……栞野さんなら、と思って」


「……栞野さんなら?」


まどかが少し頬を染めた。


「丁寧に扱ってくださる方だと、わかっていたので」


文はその言葉をしばらく処理できなかった。


まどかは本棚に向かっていって、いつも通り本を選び始めた。その背中はもう、きちんと整っていた。


(丁寧に、か。……本と同じように扱ったつもりだったが、それは褒め言葉になるのだろうか)


文はマニュアルを書庫に戻しながら、耳の熱さを持て余した。



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【EP. 16】レイと読書マラソン宣言

〜月に十冊読む陸上部員は存在していいのか〜

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「今月、十冊読みました!」


二月の中旬、レイが本の山をカウンターに積んだ。十冊ある。確かに十冊ある。


「……本当ですか」


「ほんとです! 全部読みました! ちゃんと中身も言えます!」


「テストではありませんが……」


「でも証明したい! 一番よかったのは『風が強く吹いている』! 次点で重松清の二冊! あとは——」


レイがすらすらと十冊の内容を話した。要点をつかんでいて、どの本のどこが好きだったかも話せる。確かに読んでいた。


「……すごいですね」


「えへへ。でも全部文さんが選んでくれた本だからかも」


「自分で読んだのはあなたですよ」


「文さんが選んでくれなかったら読んでなかった!」


文は少し考えてから言った。


「じゃあ今月は自分で選んでみてください」


「えっ」


「棚を見て、気になった本を手に取る。それが本当の読書の始まりだと思うので」


レイが少し戸惑ったように棚を見た。それからそろそろと歩いていって、棚の前で立ち止まる。本の背表紙を一冊一冊見ていく。


文はカウンターでその様子を見ていた。


十分後、レイが三冊抱えて戻ってきた。


「これにしました! ……どう思いますか?」


一冊は山岳小説、一冊は短歌の入門書、一冊は動物の生態に関するエッセイ。ジャンルがばらばらだ。でも、確かにレイらしい選択だと文は思った。身体と自然に関心がある。


「良い選択だと思います」


「本当ですか!」


「短歌の本、意外でしたが」


「走ってるとき、頭の中に言葉が浮かんでくることがあって。それって詩みたいなのかなって」


文は少し、その言葉が気に入った。


「……だとしたら、あなたは走りながら詩を書いているかもしれませんね」


レイが目を丸くした。それから、どこか誇らしそうに微笑んだ。


「……それ、すごくいい言い方ですね、文さん」


「ありがとうございます」


「なんでそんなにさらっと言えるんですか」


「思ったことを言っただけです」


レイがため息をついた。「そういうとこだよなあ」とぼやいたが、文には意味がわからなかった。



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【EP. 17】書庫の奥で二人きり

〜鍵が閉まるのはホラーか恋愛かどちらですか〜

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書庫の整理をナルミが手伝ってくれることになった。


正確には、調査対象の資料の周辺資料を整理する過程で、ナルミが「私も手伝えます」と言い出したのだ。文は断ろうとしたが、松岡さんに「助かるから頼んでいいよ」と言われてしまった。


閉館後の書庫は静かだった。天井近くまで棚が並ぶ薄暗い空間に、二人の足音だけが聞こえる。


「この棚の資料を年代順に並べ直してほしいんですが」


「わかりました」


ナルミが手袋をはめて、丁寧に本を扱い始める。文はその隣で作業リストを確認していた。


一時間ほど作業していると、後ろで重い音がした。


書庫の扉が、閉まった。


「……え?」


文が扉に近づいて取っ手を引く。開かない。


「鍵が……」


「閉まりましたか」


ナルミが静かに言った。文は内側からの開錠方法を思い出そうとした。この書庫の扉は古くて、内側のロックが誤作動することが時々ある。緊急用の番号を押せば開く。


「番号を押しますね」


暗証番号を入力して扉を開けた。五分もかからなかった。


振り返ると、ナルミが少し顔を青くしていた。


「大丈夫ですか」


「……閉所が少し苦手で」


「先ほど暗いのが苦手と言っていましたね」


「暗くて狭いのは……倍で苦手です」


ナルミがゆっくり深呼吸している。文はとっさに隣に立った。


「外に出ますか」


「……もう少ししたら大丈夫です。すみません、情けないですね」


「情けなくないです。苦手なものは人によって違いますから」


ナルミが文を見た。近い距離だった。薄明かりの中で眼鏡のレンズが光って、その奥の目が文をまっすぐ見ている。


「……栞野さんって、怖いものはありますか」


「……本が全部なくなること、かな」


ナルミが小さく笑った。緊張が少しほぐれたようだった。


「それは怖いですね」


「ナルミさんも同じでしょう」


「……同じですね」


二人で書庫の入り口付近に移動して、作業を再開した。扉を開けたまま、外の廊下の光が差し込む位置で。


ナルミが作業しながら、ぽつりと言った。


「……栞野さんがいてくれてよかったです」


文はそれに答えなかった。でも、棚に向けた横顔が、わずかに緩んだかもしれない。



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【EP. 18】まどかの手紙と春の予感

〜栞に込めた気持ちを司書はどこまで読むのか〜

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三月の初旬、まどかが返却した本の中に、いつもと違うものが入っていた。


栞ではなかった。便箋一枚だった。


丁寧な字で、こう書いてあった。


——《三年間、本を返すたびに小さなメモを挟んできました。次の読者への挨拶のつもりでいましたが、最近気づきました。本当は、本を選んでくれた人に届けたかったのかもしれません。雪国を選んでくれてありがとうございました。冬の間、何度も読み返しました。春になったら、また何か選んでもらえますか。まどか》


文は便箋をしばらく持ったまま、カウンターに立っていた。


本を媒介にした、静かな告白みたいなものだ。まどか自身はそう意識していないかもしれない。でも文には、それがとても真剣な言葉に感じられた。


木曜日の午前中、まどかが来た。いつも通り、静かな足音で。


「栞野司書さん、おはようございます」


「おはようございます」


文は少し迷ってから、引き出しから便箋を取り出した。


「……先日の本に入っていました。次の方が借りる前に気づいたので」


まどかが便箋を見て、少し顔を赤くした。


「……読みましたか」


「はい」


「……恥ずかしいですね」


「いいえ」


文はもう一冊、本をカウンターに出した。川端康成の『古都』だった。


「春の本です。雪国の次に読むなら、これかと思いました」


まどかが本の表紙を見て、それから文を見た。


「……早速、選んでいただけるんですね」


「便箋の返事、のつもりです」


まどかが静かに微笑んだ。春の日差しみたいな笑顔だった。


「……ありがとうございます。大切に読みます」


まどかが本を胸に抱えて、本棚の方へ歩いていった。足音が、いつもより少し軽い気がした。


文は引き出しを閉めながら思った。


(返事を本で返す、というのは……ずいぶん司書らしいやり方だったな)


でも、それしか思いつかなかった。それが自分のやり方だった。


図書館の窓から、梅の木に白い花がついているのが見えた。春は、もうすぐそこまで来ていた。



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【EP. 19】ミオと春の哲学散歩

〜館外で会うと司書の仮面が剥がれる件〜

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三月の終わり、文は休日に図書館へ本を返しに来た。休日なのに図書館に来ている時点でどうかとも思うが、借りっぱなしにしておくのが気になって仕方なかった。


返却ポストに本を入れて帰ろうとしたところで、声をかけられた。


「栞野さん?」


ミオだった。私服だ。黒いロングコート、白いシャツ、細いパンツ。眼鏡は同じ。本を四冊抱えている。


「……休日ですか」


「今日は非番なんですね、私服だ」


「……非番でも本は返しに来ます」


「同じです。私も返しに来ました」


二人で返却ポストに本を入れてから、なんとなく並んで立っていた。


「どこか行くんですか」とミオが訊いた。


「散歩、を考えていました。川沿いに桜が咲いているので」


「同じ方向です」


断る理由も見つからず、二人で川沿いを歩いた。桜は七分咲きで、花びらが時々川に落ちていた。


「図書館の外の栞野さん、少し違いますね」


「そうですか」


「緊張している」


「……していません」


「眉が少し上がってます」


文は意識的に眉を下げた。ミオが小さく笑った。


「図書館の中では落ち着いていますよね。本棚があると安心する?」


「……背景に本があると、話す言葉が見つかりやすいかもしれません」


「なるほど。本が思考の足場になっている」


「そういう言い方をするとかっこいいですね」


「本当のことを言っているだけです。……私も似ていますよ」


ミオが桜を見上げながら言った。


「人と話すとき、いつも本の言葉で補強しないと不安になる。自分の言葉だけでは足りない気がして」


「それは……よくわかります」


「でも栞野さんと話すときは、あまりそうならないんです」


文はミオの横顔を見た。桜色の光の中で、いつもよりどこか柔らかく見えた。


「……なぜでしょうか」


「わかりません。でも、不思議とわかってもらえる気がして」


花びらが一枚、ミオの肩に落ちた。ミオが気づかずに歩いている。


文はそれを取り除こうとして、手を伸ばしかけて、止めた。


(……やめておこう。きっと、今日はそれでいい)


花びらは風に飛ばされて、川の水面に落ちた。



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【EP. 20】レイの告白練習と巻き込まれ司書

〜練習相手に選ばれた意味を考えたくない〜

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「文さん、お願いがあります!」


四月に入って最初の週、レイが閉館間際に飛び込んできた。


「……どうぞ、でも閉館五分前です」


「五分でいいです! あのっ、告白の練習をしてほしいんですけど」


文は手を止めた。


「……それは、図書館業務の範疇外ですね」


「だって他に頼める人いないんです! チームメイトには恥ずかしいし、相談したら絶対冷やかされるし!」


「相手の方は?」


「同じ学部の先輩で、本が好きな人で。……文さんに雰囲気似てる気がして、だから練習相手に」


(僕に似ている、と言われてもそれが褒め言葉なのかどうか)


「……少しだけ、ですよ」


「ほんとですか! ありがとうございます!」


レイが深呼吸した。それから、少し真剣な顔になった。


「えっと……あの、私、先輩のことが好きで。ずっと言えなかったんですけど、春になったから、なんか言えそうな気がして……。もし、嫌じゃなければ、お付き合いしてください」


一秒の沈黙。


「……どうでしたか」と文は訊いた。


「どうって……受け取る側の感想を!」


「……真っ直ぐで、良かったと思います」


「照れましたか」


「……少し」


「やった!」


レイがガッツポーズをした。文はその反応の意味を少し考えてから、ひとまず棚上げにした。


「本番では、もう少し相手の目を見た方がいいですね。視線が少し逸れていました」


「……文さんの目、真剣すぎて見づらいんですよ」


「それは練習にならないですね」


「じゃあもう一回!」


「閉館です」


「えええ」


文はカウンターを閉めた。レイが渋々出ていきながら、ドアの前で振り返った。


「……文さんが練習相手で良かったです。なんか、怖くなくなりました」


「うまくいくといいですね」


「はい!」


レイが走って帰っていった。文は閉館作業をしながら、告白の言葉をもう一度頭の中で反芻した。


(真っ直ぐな人だ。……きっとうまくいく)


それと同時に、なぜ自分が少し照れたのかは、あまり考えないようにした。



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【EP. 21】ナルミの発表と、隣の席

〜研究発表会に司書が呼ばれる理由は何か〜

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「研究発表会に、来てもらえますか」


ナルミがカウンターで小さな案内状を差し出した。大学の文学研究科主催の発表会だった。


「……私が行っていいんですか」


「来てほしい人を一人招待できるので。……栞野さんに来てもらいたくて」


文は案内状を受け取った。日付は翌週の土曜日。


「発表の内容は例の手稿の件ですか」


「はい。先生もようやく正式に研究を認めてくれて……でも、発表は怖くて」


「……行きます」


「本当ですか」


「書庫まで付き合ったんですから、最後まで見届けますよ」


ナルミが少し目を赤くした。泣きそうな顔を眼鏡で隠すようにうつむいた。


土曜日、文は私服で大学を訪れた。百人ほど入れる講義室に、院生や教員が集まっている。


ナルミの発表は午後最初のセッションだった。題目は《近代初期における埋もれた女性文学者の手稿——某民話集への混入例の検証》。


壇上のナルミは緊張していた。声が少し細い。でも、語り始めると安定してきた。文が見ているのがわかっているのかもしれない。


発表は二十分、質疑応答が十分。指導教員から懐疑的な質問が来たが、ナルミは事前に用意した証拠写真と、他の研究者の見解を冷静に示した。


最後に会場から拍手が来た。


発表後、ロビーでナルミが文のそばに来た。顔に色が戻っていた。


「……どうでしたか」


「説得力がありました。証拠の提示の順序が特に」


「栞野さんと一緒に記録した写真が、一番効きました」


「それはナルミさんが見つけた証拠です」


「栞野さんがいなかったら気づかなかった。……本当に、ありがとうございます」


ナルミが深く頭を下げた。文はどう返せばいいかわからなくて、少し困った。


「……コーヒー、飲みますか。学食が開いていれば」


「……はい。ぜひ」


二人で学食に入って、窓側の席に並んで座った。春の午後の光が差し込んでいた。


ナルミがカップを持ちながら言った。


「今日来てくれた人が、栞野さんで良かったです」


「……他に呼ぶ人はいなかったんですか」


「いました。でも、栞野さんに見てほしかったので」


文はコーヒーを一口飲んだ。何も言わなかったけれど、その言葉は、静かに胸の中に落ちた。



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【EP. 22】四人が初めて同じ場所に揃う日

〜読書会という名の修羅場回避戦略〜

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読書会を開くことになったのは、松岡さんの提案だった。


「図書館の活性化のために、利用者参加型のイベントをやってみましょうよ。栞野くんが担当者ね」


「……なぜ私が」


「若い人の方が利用者に声をかけやすいでしょう。常連の方に声かけてみてください」


文は一週間悩んだ末に、四人に声をかけた。ミオ、まどか、レイ、ナルミ。全員が快諾した。


そして当日、全員が揃った瞬間に文は気づいた。これはまずいかもしれない。


「……あの、皆さん初めましてですね」


ミオが全員をさらっと見渡した。レイが元気よく「よろしくです!」と言った。まどかが静かに会釈した。ナルミが眼鏡を直しながら会釈した。


「栞野司書さんの知り合いの方々、ですね」とまどかが言った。


「そうみたいですね」とミオが言った。


「文さんのおすすめで本読み始めたんです!」とレイが言った。


「私も」「私も」「私も」


三人が重なった。


文は少し固まった。


読書会は『春と修羅』を題材に始まった。宮沢賢治の詩集だ。文が選んだ。


ミオが哲学的な読み方をした。まどかが情景の美しさについて話した。レイが「走ってるときの気持ちに似てる」と言った。ナルミが作者の生涯と照らし合わせた。


四人の視点が違いすぎて、でも全員が一冊の本について真剣に話していて、文はそれをただ聞いていた。


終了後、片付けをしながらミオが文に言った。


「……栞野さんは発言が少なかったですね」


「司書は進行役なので」


「そうじゃなくて。四人の話を聞きながら、どう思いましたか」


文はしばらく考えた。


「……一冊の本が、四通りの世界を持つ、というのが改めて面白いと思いました」


「それ、栞野さんが四人を繋いだということにもなりますよ」


「本が繋いだんです」


「……頑固ですね」


ミオが静かに笑った。その後ろでまどかが食器を片付け、レイがテーブルを拭き、ナルミが本を棚に戻していた。


(本が繋いだ。それは本当だ。でも……きっかけは、全員この図書館に来たことだ)


文は棚に本を戻しながら、少し、嬉しかった。



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【EP. 23】閉館後の告白未遂と本棚の間

〜言いかけて止まった言葉はどこへ行くのか〜

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五月の終わり、図書館に利用者がいなくなった後、まどかだけが残っていた。


「……今日は閉館が遅かったですね」とまどかが言った。


「読書会の後片付けが残っていて」


「手伝いましょうか」


「いいですよ、大丈夫です」


でもまどかは帰らなかった。本棚の近くで、文が後片付けをするのをただ見ていた。


「……まどかさん?」


「あの、栞野さん」


まどかが一歩踏み出した。


「少し、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


まどかが少し息を吸った。


「……栞野さんは、この図書館が好きですか」


「はい。好きです」


「本が好きで、ここが好きで……利用者のことは?」


「皆さん、本を大切にしてくださる方ばかりで、ありがたいと思っています」


まどかが少し笑った。でも、どこか寂しそうな笑い方だった。


「……利用者として、じゃなくて」


文は手を止めた。


まどかの目が文をまっすぐ見ていた。着物の袖を両手で握りしめていた。


「私は……栞野さんのことが——」


バンッ。


書架の端に積んであった本が崩れた。文が反射的に動いて、本が床に広がった。


「……申し訳ありません、大丈夫ですか」


「あ……はい、大丈夫です」


二人で床の本を拾い集めた。まどかの頬がほんのり赤かった。文も耳が熱い。


本を棚に戻し終えて、少し沈黙が続いた。


「……さっき」と文が言いかけた。


「いいんです」とまどかが遮った。やわらかく、でもはっきりと。「また今度にします」


「……はい」


まどかが荷物を取って、出口に向かった。振り返って、いつもの静かな笑顔を見せた。


「……良い本を、これからもよろしくお願いします、栞野さん」


「こちらこそ」


まどかが出ていった。図書館に文一人が残った。


文は本棚に手を当てて、しばらく目を閉じた。


(言いかけた言葉の続きは何だったのか。——わかっていた。わかっていて、本が崩れたことに、少し安堵した自分もいた。それはどういうことだろう)


夏の前の夜が、図書館を包んでいた。



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【EP. 24】栞は、誰かに読まれるために存在する

〜1期最終話・本と栞と、静かな図書館で〜

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六月最初の月曜日、文は早めに出勤して、いつもより念入りに館内を掃除した。


理由はない。ただそうしたかった。


書架を拭きながら、一冊一冊の背表紙を眺めた。どれだけ読まれてきたか、どれだけの人が手に取ったか、本は何も言わない。でも紙の黄ばみ具合や、表紙の擦れ方に、時間の重さがある。文はその重さが好きだった。


開館して、最初に来たのはミオだった。


「おはようございます。……論文、優秀賞を取りました」


文は思わず顔を上げた。


「それは……おめでとうございます」


「栞野さんと話した愛の議論が核になりました」


「それはミオさんが考えたことです」


「きっかけは栞野さんです」


ミオが眼鏡を押し上げて、文を見た。


「栞野さんは……大事なことをいつも間接的にしか伝えないですね。本みたいに」


「本みたいに?」


「本は直接語りかけない。でも、読む人の心に直接届く」


文はその言葉を、しばらく咀嚼した。


午前中にまどかが来た。今日は薄い水色の着物だった。


「栞野さん、先日は……お騒がせしました」


「いいえ」


「でも、伝えたいことがあって」まどかが本を返しながら言った。「この一年、ここに来て良かったと思っています。本も、栞野さんも……図書館も、好きです」


「ありがとうございます」


「それだけです」


まどかが笑って、いつもの棚へ向かった。


午後、レイが走ってきた。


「文さん! 告白、成功しました!!」


「走らないでください。……おめでとうございます」


「ありがとうございます! 練習のおかげです!」


「あなたの言葉のおかげです」


「でも文さんが最初の本を選んでくれなかったら、チームメイトの骨折のときも立ち直れなかったし、告白する勇気も出なかったと思います」


レイが真剣な目で言った。


「本って……本当に、人を変えるんですね」


「……そう思ってもらえると、司書冥利に尽きます」


夕方、ナルミがメッセージを送ってきた。


——《論文が学会誌に掲載されることになりました。資料を提供してくださった図書館への謝辞に、栞野文様のお名前を入れてよいですか》


文は少し考えてから返信した。


——《図書館の資料への謝辞でお願いします。個人名は不要です》


すぐに返信が来た。


——《……栞野さんらしいですね。でも私の心の謝辞には、ちゃんと入っています》


文はスマホを置いて、夕暮れの館内を見渡した。


棚に並ぶ本たち。まだ読まれていない本、何度も読まれた本、誰かの栞が挟まったままの本。


栞は、読んだ場所を記録するためのものだ。でも本当は——次に続きを読むための道しるべだ。ここまで来たから、ここから始めよう、という印。


(僕はこの一年で、四人の人と本を通して繋がった。それは栞みたいなものかもしれない。この先のページへの、道しるべ)


閉館のアナウンスを流して、文は書架の電気を落とした。最後に残った窓からの夕陽が、本の背表紙を金色に染めていた。


文はミオからもらった革の栞を取り出した。自分の愛読書に挟んで、棚に戻した。


明日、また誰かがここに来る。本を借りに、本を返しに、本の話をしに。


そして今日も、図書館は静かに扉を閉じた。


——続く

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