甘い香り①
果物の甘い香りは、ときに何十年もの時間を飛び越え、忘れかけていた大切な人を連れてくる。
これは、一人の少年と祖父を結ぶ「匂いの記憶」の物語である。
渋滞で車が止まった時、僕ははじめ、その建物に気づかなかった。
信号は赤のまま、前の車のブレーキランプだけが、じっと赤く光っていた。窓の外には、どこにでもある地方道の風景が流れもせず、ただ置かれていた。電柱。看板。錆びたフェンス。倉庫。資材置き場。
その中のひとつに、僕はふと目を留めた。
あれ。
胸の奥で、小さな何かが鳴った。
建物の形は、昔のままだった。けれど中身はまるで違っていた。入口の奥には、果物の木箱ではなく、銀色の足場材が積み上げられている。無機質で、冷たくて、匂いのしない金属の山だった。
その瞬間、僕の鼻の奥に、あるはずのない匂いがよみがえった。
甘い香り。
熟れはじめたバナナの、とろけるような、甘い香り。
花の青く湿った香り。
とりたての、みずみずしい野菜の匂い。
それらが一斉に、僕の記憶の扉を押し開けた。
匂いというのは、ずるい。
写真よりも、言葉よりも、不意打ちで人を昔へ連れ戻す。
僕はもう大人になっていたのに、その一瞬だけ、小学校一年生か二年生の僕に戻っていた。
祖父の市場に連れて行かれて、助手席で足をぶらぶらさせていた、あの頃の僕に。
祖父の右腕には、くっきりとした火傷の跡があった。
半袖シャツの形そのままに残った皮膚の境目。肩から胸、腕にかけて広がる、薄桃色の引きつれた跡。
祖父は夏でも、外へ出る時は必ず長袖のワイシャツを着た。暑くても、袖をまくらなかった。子どもの僕には、その理由がよく分からなかった。
けれど、家の中では違った。
薄い肌着姿で新聞を読んでいる祖父の身体には、その火傷の跡がはっきり見えた。見ようとしなくても、視界に入った。
でも僕は怖くなかった。
生まれた時から、祖父はそういう人だったからだ。
大きな火傷の跡がある人。
それが僕のおじいちゃんだった。
祖父は、野菜や果物や花を扱う市場を営んでいた。
市場には地下室があり、昔そこにはバナナを保存する冷蔵庫があったという。まだ電気式ではなく、プロパンガスを使う冷蔵庫だった。
ある日、祖父が地下室で作業をしていた時、ガスに火がついた。
爆発だった。
祖父は地下室から地上まで吹き飛ばされ、炎に包まれたまま地面に叩きつけられた。
地上にいた人たちは、突然地面が爆ぜたような音を聞き、何が起きたのか分からないまま、火だるまになった祖父を見た。
それでも逃げなかった。
自分たちも腕に火傷を負いながら、祖父を転がし、必死に火を消した。
もしその人たちがいなかったら、祖父は死んでいたかもしれない。
病院に運ばれた祖父を見て、医師は祖母に言った。
「命の危険があります。覚悟しておいてください」
祖母は、その言葉で目の前が真っ暗になったらしい。
母と、もう一人の子ども。
これからどうやって生きていけばいいのか。まだ若かった祖母は、病院の待合室で、そのことばかり考えていたという。
けれど祖父は生きた。
何日も何日も危ない状態を越え、ゆっくりと回復した。
顔にはほとんど跡が残らなかった。けれど上半身には、一生消えない大きな火傷の跡が残った。
祖父はそれを、あまり語らなかった。
僕がじっと腕を見ていると、微笑むだけだった。
何も言わない。
僕が好きだったのは、そんな祖父と行く市場だった。
祖父の運転する車の助手席に乗せられると、それだけで一日が特別になった。
市場に近づくにつれ、祖父の横顔が少し仕事の顔になる。煙草の匂いと、整髪料の匂い。幅の広いストライプのスーツ。太い指。少し低い声。
僕にとって祖父は、どこか映画の中の人みたいだった。
市場の扉が開く。
すると、甘い香りが押し寄せてくる。
バナナ。
林檎。
桃。
花。
青い野菜。
段ボール。
働くおじさんたちの煙草。
それらが全部まざって、市場の匂いになっていた。
ただ甘いだけではない。
少し生々しくて、少し乱暴で、でもたまらなく懐かしい匂い。
僕はその匂いを吸い込むたびに、胸のあたりがふわっとした。
市場は、決してメルヘンではなかった。
花と果物の香りが漂う横で、おじさんたちが黙々と荷を運び、木箱を積み、段ボールを開けていた。
甘い香りと、おじさん。
その妙な組み合わせこそが、市場だった。
そして、その中でも僕が一番好きだったのは、バナナの冷蔵庫だった。
祖父の火傷の跡の向こうには、家族を守るために生き抜いた一人の男の人生があった。
そして僕はまだ知らない――あの市場の「甘い香り」が、一生消えない記憶になることを。




