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甘い香り①

作者: 森本有介
掲載日:2026/06/08

果物の甘い香りは、ときに何十年もの時間を飛び越え、忘れかけていた大切な人を連れてくる。

これは、一人の少年と祖父を結ぶ「匂いの記憶」の物語である。

渋滞で車が止まった時、僕ははじめ、その建物に気づかなかった。


 信号は赤のまま、前の車のブレーキランプだけが、じっと赤く光っていた。窓の外には、どこにでもある地方道の風景が流れもせず、ただ置かれていた。電柱。看板。錆びたフェンス。倉庫。資材置き場。


 その中のひとつに、僕はふと目を留めた。


 あれ。


 胸の奥で、小さな何かが鳴った。


 建物の形は、昔のままだった。けれど中身はまるで違っていた。入口の奥には、果物の木箱ではなく、銀色の足場材が積み上げられている。無機質で、冷たくて、匂いのしない金属の山だった。


 その瞬間、僕の鼻の奥に、あるはずのない匂いがよみがえった。


 甘い香り。


 熟れはじめたバナナの、とろけるような、甘い香り。


 花の青く湿った香り。


 とりたての、みずみずしい野菜の匂い。


 それらが一斉に、僕の記憶の扉を押し開けた。


 匂いというのは、ずるい。

 写真よりも、言葉よりも、不意打ちで人を昔へ連れ戻す。


 僕はもう大人になっていたのに、その一瞬だけ、小学校一年生か二年生の僕に戻っていた。


 祖父の市場に連れて行かれて、助手席で足をぶらぶらさせていた、あの頃の僕に。



 祖父の右腕には、くっきりとした火傷の跡があった。

 半袖シャツの形そのままに残った皮膚の境目。肩から胸、腕にかけて広がる、薄桃色の引きつれた跡。


 祖父は夏でも、外へ出る時は必ず長袖のワイシャツを着た。暑くても、袖をまくらなかった。子どもの僕には、その理由がよく分からなかった。


 けれど、家の中では違った。


 薄い肌着姿で新聞を読んでいる祖父の身体には、その火傷の跡がはっきり見えた。見ようとしなくても、視界に入った。


 でも僕は怖くなかった。


 生まれた時から、祖父はそういう人だったからだ。


 大きな火傷の跡がある人。


 それが僕のおじいちゃんだった。


 祖父は、野菜や果物や花を扱う市場を営んでいた。

 市場には地下室があり、昔そこにはバナナを保存する冷蔵庫があったという。まだ電気式ではなく、プロパンガスを使う冷蔵庫だった。


 ある日、祖父が地下室で作業をしていた時、ガスに火がついた。


 爆発だった。


 祖父は地下室から地上まで吹き飛ばされ、炎に包まれたまま地面に叩きつけられた。


 地上にいた人たちは、突然地面が爆ぜたような音を聞き、何が起きたのか分からないまま、火だるまになった祖父を見た。


 それでも逃げなかった。


 自分たちも腕に火傷を負いながら、祖父を転がし、必死に火を消した。

 もしその人たちがいなかったら、祖父は死んでいたかもしれない。


 病院に運ばれた祖父を見て、医師は祖母に言った。

「命の危険があります。覚悟しておいてください」

 祖母は、その言葉で目の前が真っ暗になったらしい。


 母と、もう一人の子ども。


 これからどうやって生きていけばいいのか。まだ若かった祖母は、病院の待合室で、そのことばかり考えていたという。


 けれど祖父は生きた。


 何日も何日も危ない状態を越え、ゆっくりと回復した。


 顔にはほとんど跡が残らなかった。けれど上半身には、一生消えない大きな火傷の跡が残った。


 祖父はそれを、あまり語らなかった。


 僕がじっと腕を見ていると、微笑むだけだった。


 何も言わない。



 僕が好きだったのは、そんな祖父と行く市場だった。

 祖父の運転する車の助手席に乗せられると、それだけで一日が特別になった。

 市場に近づくにつれ、祖父の横顔が少し仕事の顔になる。煙草の匂いと、整髪料の匂い。幅の広いストライプのスーツ。太い指。少し低い声。


 僕にとって祖父は、どこか映画の中の人みたいだった。


 市場の扉が開く。


 すると、甘い香りが押し寄せてくる。

 バナナ。

 林檎。

 桃。

 花。

 青い野菜。

 段ボール。

 働くおじさんたちの煙草。


 それらが全部まざって、市場の匂いになっていた。


 ただ甘いだけではない。


 少し生々しくて、少し乱暴で、でもたまらなく懐かしい匂い。


 僕はその匂いを吸い込むたびに、胸のあたりがふわっとした。


 市場は、決してメルヘンではなかった。


 花と果物の香りが漂う横で、おじさんたちが黙々と荷を運び、木箱を積み、段ボールを開けていた。


 甘い香りと、おじさん。


 その妙な組み合わせこそが、市場だった。


 そして、その中でも僕が一番好きだったのは、バナナの冷蔵庫だった。


祖父の火傷の跡の向こうには、家族を守るために生き抜いた一人の男の人生があった。

そして僕はまだ知らない――あの市場の「甘い香り」が、一生消えない記憶になることを。

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