五幕 閾値
三月の夜、莉緒はソファに座っていた。
机の上には、倫理委員会に提出するためのドラフトがあった。七十ページ。参照文献、百十二件。数字は正確だった。
莉緒は、それをしばらく見ていた。
送っても、何が起きるかわからない。委員会が「証拠不十分」と判断すれば、そこで終わる。証拠が十分だと判断されれば、次のステップに進む。しかしそのとき業界全体が対象になる。関連するデバイスメーカー、プラットフォーム企業、全体の市場規模は数十兆円に上る。誰もが、誰かの雇用主か、株主か、消費者だ。
そして、莉緒が一番考えていたこと。
自分はすでに、変わっているかもしれない。
デバイスを使い始めたのは四年前だ。蓄積があるとすれば、莉緒自身の脳内にも粒子がある。報酬感受性が変化しているとすれば、自分の判断もその影響下にある。「発表すべきだ」という衝動が強いのか弱いのか、それが「正常な判断」なのか「変化後の判断」なのか、自分にはわからない。
基準が変われば、何が変化したかも、わからなくなる。
莉緒は、右耳の後ろのパッチに触れた。
今夜のプロファイルは「夜間リラックス:カモミール+サンダルウッド」だった。
ドラフトを添付してメールを作成した。宛先に、倫理委員会の事務局アドレスを入力した。
そして、アプリを開いた。
理由は、なかった。ただ、習慣として。
プロファイルが切り替わる。新しい揮発プログラムが始動する。かすかな、甘い香り。
莉緒は、画面を見た。「送信」ボタンがあった。
香りが、静かに漂った。
機器の動作音だけが、部屋に残った。
了




