四幕 証明できないもの
——読者だけが知っている。
莉緒はその後三日間、ファイルに戻らなかった。
問い合わせメールの下書きが、ゴミ箱に消えた。
四日目に偶然ファイルを再発見したとき、莉緒は「以前確認した気がするが内容が思い出せない」と感じた。
そして、そのズレを、記録しなかった。
結局、莉緒がファイルに真剣に向き合ったのは、別のきっかけからだった。
学会誌に、脳内ナノ粒子に関する短いコレスポンデンスが掲載された。著者は神戸の研究者で、莉緒のデータとほぼ同じ観察結果を報告していた。それを読んだとき、記憶が戻ってきた。自分が三週間前に似たデータを見ていたこと。なぜ放置したのか、思い出せなかった。
今度こそ、莉緒は系統的に動いた。
五つのデータセットを横断比較し、粒子蓄積と報酬感受性変化の相関を確認した。変化は小さかったが、統計的に有意だった。そして粒子の組成を詳細に分析したとき、それが市販のいくつかのデバイスに共通する製造工程上の副産物であることがわかった。特定の企業のものではなく、業界全体で採用されているプロセスから生じる、避けがたい産物だった。
悪意は、どこにもなかった。
ただ、最適化の副産物として、脳の報酬回路が静かに書き換えられていた。
莉緒は上司に相談するためのレポートを書き始めた。書きながら、自分が何を証明しようとしているかを、何度も確認した。
まず、何が「異常」なのか。
報酬感受性が上がることは、疾患ではない。使用者は「気持ちいい」と感じており、離脱症状も認知機能低下も確認されていない。むしろ満足度調査では高いスコアを示している。「閾値が変わった」という事実だけがある。どちらが「正常な閾値」なのか、定義する基準がない。
誰も被害を訴えていない。
次に、因果関係。粒子の蓄積と報酬感受性変化の相関はある。しかしそれが直接の因果であることを証明するには、動物実験もしくは介入試験が必要だ。現状はあくまでも観察研究だ。
そして最大の問題。
「なぜ今まで誰も気づかなかったのか」という問いに答えなければならない。研究者も、規制当局も、医師も。その答えが、莉緒には怖かった。気づかなかったのではなく、「気にならなくなっていた」可能性がある。莉緒自身が、その三週間を証拠として持っていた。でもそれは証拠にならない。自己申告だからだ。
莉緒は上司のオフィスに行き、十五分で概要を説明した。
上司は、静かに聞いていた。
「確認するが」と上司は言った。「現時点で健康被害を訴えた人は、いない?」
「います。でも、」
「被害の定義が確立していない、と君は言っている」
「そうです。でも報酬回路の閾値変化は——」
「それは、薬効として解釈することもできる」
莉緒は黙った。
「君の仮説は面白い」と上司は続けた。「ただ、今の段階で社外に出すのは早い。まず社内の倫理委員会に諮る。それで検討する価値があると判断されれば、適切な手順で進める。いいね?」
倫理委員会の次の会合は、二ヶ月後だった。




