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一幕 基準値


 その朝も、桐嶋莉緒はデバイスを装着してから研究室のドアを開けた。


 右耳の後ろに貼り付けた薄いパッチが、皮膚温を感知して起動する。アプリがバックグラウンドで立ち上がり、「今日の集中モード:シダーウッド+ペパーミント」という通知が網膜投影のすみに流れた。莉緒はそれを意識の外に押しやりながら、白衣のポケットに手を入れた。


 嗅覚デバイスが普及して七年が経つ。


 最初は睡眠補助アプリだった。ラベンダーの分子構造を持つ揮発性マイクロカプセルをパッチ内に充填し、就寝時に徐放する。嗅神経を経由して大脳辺縁系に直接作用するため、服薬より早く、副作用も少ない。臨床データは申し分なかった。三年目には集中力補助、五年目には気分安定、そして今では「生産性の最適化」という曖昧な名前のもとに、職場の八割の人間が何らかのプロファイルを使っている。


 莉緒はフェニックス製薬の品質管理部に所属していた。正確には、神経薬理部門の有効成分評価チームだ。デバイスに封入されるマイクロカプセルの粒径、揮発速度、嗅粘膜への吸着率を測定し、規格に収まっているかを確認する。地味な仕事だが、精度が必要だった。


「集中モード」を使い始めたのは同僚に勧められたからだ。最初は信用していなかった。自分で成分を解析できる立場にある人間が、気安く他社製品を使うことへの違和感もあった。しかし一週間使って、午前中の作業効率が上がった気がした。気がした、という曖昧さが引っかかったが、結局そのまま使い続けた。


 引っかかったことは、もう忘れていた。






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