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社会人編 第3章  似ている、というだけで

 その日、沙月は少しだけ帰りが遅くなった。


 会議が長引いたわけでも、

 誰かに引き止められたわけでもない。

 ただ、仕事の区切りがつかなかっただけだ。


 エレベーターを降り、

 ロビーを抜けると、外はすっかり夜だった。


 ビルの外壁に映る自分の影が、

 少しだけ大人になったように見える。


 駅へ向かう途中、

 小さなカフェの前で足を止めた。


 ガラス越しに見える店内は、

 暖かそうな光で満ちている。


 ――少しだけ。


 そう思って、ドアを押した。


 ベルの音。

 コーヒーの香り。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から、

 低く、落ち着いた声がした。


 その声に、

 沙月は反射的に顔を上げる。


 そこにいたのは、

 エプロンをつけた男性だった。


 一瞬、世界が止まる。


 似ている。


 昨日の交差点よりも、

 はっきりと。


 目元。

 横顔の線。

 少し伏せた視線の癖。


 でも――

 どこかが、違う。


「……お一人ですか?」


 声をかけられて、

 沙月はようやく息を吐いた。


「はい」


 カウンターの端に座る。

 心臓の音が、少しだけ大きい。


「おすすめは?」


 そう聞くと、

 男性は一瞬考えてから答えた。


「今日は寒いので、

 深煎りのほうがいいかもしれません」


 言い方が、直樹とは違う。

 断定しない。

 押しつけない。


 それなのに、

 なぜか安心する。


「じゃあ、それで」


 カップを用意する横顔を、

 沙月は見ないようにした。


 見すぎると、

 何かが崩れそうだったから。


 コーヒーが置かれる。


「どうぞ」


「……ありがとうございます」


 指先が触れそうになって、

 触れなかった。


 その距離が、妙に現実的だった。


 コーヒーを一口飲む。

 苦みが、ゆっくり広がる。


「この辺、よく来られるんですか?」


 男性が、何気なく聞いてくる。


「……最近、たまに」


「そうなんですね」


 それ以上、踏み込まない。


 沙月は思う。


 この人は、

 人の境界線を、ちゃんと分かっている。


 だからこそ、

 余計に混乱する。


 会計を済ませ、立ち上がる。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました。またどうぞ」


 その言葉に、

 引き止める響きはない。


 ドアを開ける直前、

 沙月は振り返った。


「あの……」


 男性が顔を上げる。


「……お名前、聞いてもいいですか」


 一瞬だけ、間があった。


 それから、

 彼は自然に答えた。


「裕也です」


 その名前は、

 胸の奥に、静かに落ちた。


「……そうですか」


 沙月は、それ以上何も言えなかった。


 店を出る。


 夜の空気が、冷たい。


 歩きながら、

 沙月は何度も、その名前を心の中で繰り返す。


 直樹ではない。

 でも、無関係でもない。


 その確信だけが、

 雪のない夜に、静かに残っていた。

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