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社会人編 第2章  名前を呼ばない日々

 朝の改札は、相変わらず人が多い。


 沙月は流れに逆らわないように歩きながら、

 無意識にスマホの画面を伏せた。


 もう、誰かからの連絡を期待して

 何度も確認することはない。


 それが、いつからだったのかは覚えていない。


 会社に着き、デスクに座る。

 パソコンを立ち上げ、メールを確認する。


 画面に並ぶ文字は、どれも現実的だ。

 締切、会議、修正依頼。


 学生だった頃の時間は、

 こういう言葉の中には存在しなかった。


 昼休み、同僚と並んで歩く。


「最近、忙しそうだね」


「……そうかも」


 笑って答える。

 理由は、特にない。


 午後の仕事を終え、外に出ると、

 空はもう薄暗くなっていた。


 季節は、いつの間にか巡っている。


 帰り道。

 沙月は、昨日の交差点を避けるでもなく、

 同じ道を歩いていた。


 昨夜のことを、

 何度も思い返したわけじゃない。


 ただ、

 思い出さないようにする必要も、なかった。


 ――似ていただけ。


 そう思えば、それで済む。


 それなのに、

 信号待ちの列に立つと、

 自然と視線が人の横顔を追ってしまう。


 知らない顔。

 知らない背中。


 それを確認して、少しだけ安心する。


 家に着き、靴を脱ぐ。

 部屋は静かだった。


 コートを掛け、照明を点ける。


 棚の奥に、使っていない箱がある。

 中身を確認することは、もうない。


 捨てていない。

 でも、開けてもいない。


 それで、十分だった。


 沙月は、キッチンで湯を沸かしながら、

 ふと思う。


 もし、

 あの冬の朝に出会っていなかったら。


 もし、

 あの夜、待つことを選ばなかったら。


 でも、その先は考えない。


 過去は、

 やり直すためにあるものじゃない。


 ただ、

 積み重なって、

 今の自分を形作っているだけだ。


 湯気が立ち上る。


 カップを手に取り、

 ソファに腰を下ろす。


 テレビの音が、部屋を満たす。


 沙月は、名前を呼ばない。


 声に出さなくなって、

 もう、随分経つ。


 それでも――

 昨夜の横顔が、

 まだ、どこかに残っていることだけは、

 否定できなかった。

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