社会人編 第1章 交差点ですれ違う人
夜の交差点は、光が多すぎて、逆に輪郭が曖昧になる。
信号待ちの人波の中で、沙月はコートの前を軽く押さえた。
仕事帰り。
特別な一日ではない。
イヤホンから流れる音楽は、途中で止まっていた。
気づかないまま、スマホをポケットにしまう。
赤信号。
車のライトが、交差点を白く照らす。
ビルの窓明かりが、雨上がりのアスファルトに映り込む。
――ふと。
視界の端に、違和感が入った。
向こう側の歩行者の列。
スーツ姿の男が、一人。
ただ、それだけなのに。
沙月の呼吸が、ほんの一瞬、止まる。
横顔。
信号を待つ、その立ち姿。
少しだけ伏せた視線。
無意識に肩にかけた鞄の持ち方。
――違う。
そう思った直後に、
――でも。
という言葉が、頭の奥に浮かんだ。
信号が変わる。
人の流れが、一斉に動き出す。
沙月は、歩きながらも視線を外せなかった。
すれ違う、ほんの数秒。
その瞬間、男が顔を上げる。
光に照らされた輪郭。
知っているはずの、知らない顔。
心臓が、強く打つ。
――直樹。
名前を呼びそうになって、
声が喉で止まる。
次の瞬間、
男は人波に紛れ、
もうどこにもいなかった。
交差点を渡り切って、沙月は立ち止まる。
振り返る。
でも、同じ背中は見つからない。
ただの、見間違い。
疲れているだけ。
よくあること。
そう言い聞かせても、
胸の奥のざわめきは消えなかった。
歩き出す。
足音が、少しだけ乱れる。
――似ていただけ。
何度も、そう思う。
それなのに、
思い出すのは、
冬の朝の冷たい空気と、
遅刻ギリギリの足音。
もう、何年も前のこと。
忘れたつもりで、
ちゃんとしまっていたはずの時間。
それが、
たった一瞬の横顔で、
揺れた。
沙月は、立ち止まらなかった。
追いかけもしない。
ただ、
その夜のことを、
きっと忘れないと分かっていた。
理由は、まだ分からない。
でも――
あれは、偶然ではなかった気がした。




