社会人編 第11章 名前の行方
紙が、完全に引き出された。
音はしなかった。
けれど、部屋の空気が、確かに変わった。
裕也は、書面に視線を落とす。
文字は、整いすぎるほど整っている。
氏名。
生年月日。
続柄。
どれも、事務的で、感情を許さない。
――母。
その二文字が、
はっきりと記されていた。
そして、その下にある名前。
真紀。
裕也は、瞬きを一度だけした。
頭が真っ白になる、
という感覚はなかった。
むしろ、
すべてが、急に理解できてしまった。
「……そうか」
声は、
自分でも驚くほど落ち着いていた。
沙月は、
裕也の手元を見なかった。
見る必要がなかった。
彼の表情だけで、
十分だった。
「……私」
沙月は、
言葉を探しながら、
それでも続けた。
「お母さんから、
少しだけ聞いてました」
“少しだけ”。
その言葉の重さが、
今になって分かる。
「あなたが、
私の……」
兄、という言葉も。
弟、という言葉も。
どちらも、
途中で止まった。
裕也は、
紙をテーブルに置き、
ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
それだけだった。
怒りも、
動揺も、
表に出なかった。
沙月は、
その沈黙のほうが、
苦しかった。
「……ごめんなさい」
何に対しての謝罪なのか、
自分でも分からない。
裕也は、
首を振った。
「謝る必要は、ないです」
少し間を置いて、
続ける。
「でも……
今まで、
何もなかったと思ってた場所に、
ちゃんと名前があったんだなって」
それは、
安堵にも、
喪失にも聞こえた。
「知らないままでいたほうが、
楽だって、
言ってましたよね」
沙月が言う。
「ええ」
裕也は、小さく笑った。
「……今も、
そう思わなくはないです」
それでも。
その続きを、
彼は言わなかった。
言わなくても、
伝わってしまう。
この事実は、
取り消せない。
直樹の存在。
沙月の記憶。
真紀の沈黙。
すべてが、
ここで一本に繋がった。
「……私たち」
沙月が言う。
「これから、
どうなるんでしょう」
問いというより、
独り言に近かった。
裕也は、
少し考えてから答える。
「分かりません」
正直な声だった。
「ただ……
少なくとも、
他人ではない」
その言葉は、
距離を縮めるものではなかった。
むしろ、
新しい距離を生んだ。
沙月は、
胸の奥に、
小さな虚しさが広がるのを感じた。
失ったものは、
もう数えきれない。
でも、
得たものが、
救いになるとは限らない。
外では、
雪が静かに降り続いている。
白く、
すべてを同じ色にしていく。
裕也は、
書類を丁寧に畳み、
封筒に戻した。
「……今日は、
ここまででいいですね」
沙月は、
小さく頷いた。
二人は、
それ以上何も言わなかった。
この夜は、
結論を出すための夜ではない。
ただ、
真実が、
ここに置かれただけだ。
冬は、
まだ続いている。
そして、
この約束もまた、
守られたとは、
まだ言えなかった。




