社会人編 第10章 開ける前の夜
夜は、静かすぎるほど静かだった。
裕也の部屋には、
最低限の家具しかない。
ベッド、テーブル、
小さな棚。
そのテーブルの上に、
白い封筒が置かれていた。
昼間から、
ずっとそこにある。
触れていないのに、
視界の端で、ずっと存在を主張していた。
時計を見る。
もう、日付が変わりそうだった。
裕也は、コーヒーを淹れた。
味は、ほとんど分からない。
カップを置き、
ようやく封筒に手を伸ばす。
指先が、
わずかに震えているのが分かった。
――もし、
ここに書かれている名前が、
自分の知っているものだったら。
――もし、
知らない名前だったら。
どちらにしても、
今までの自分は、終わる。
裕也は、
それを直感的に理解していた。
そのとき、
スマートフォンが震えた。
沙月からだった。
今、大丈夫ですか。
短いメッセージ。
裕也は、少し考えてから、
こう返した。
大丈夫です。
嘘ではなかった。
ただ、
本当でもなかった。
数分後、
玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、
沙月が立っていた。
コートの肩に、
溶けかけた雪が残っている。
「……来ちゃいました」
「ええ」
それだけで、
十分だった。
部屋に入ると、
沙月はすぐに、
テーブルの上の封筒に気づいた。
視線が、
そこから離れない。
「……それ」
「今日、もらいました」
二人とも、
近づかない。
まるで、
触れたら壊れるもののように。
「開けるんですか」
沙月の声は、
驚くほど落ち着いていた。
「……今日じゃなくても、
いいと思ってました」
「でも」
「でも、
たぶん……
今日が、一番ましです」
沙月は、
小さく笑った。
「そうですね。
先延ばしにしても、
重くなるだけ、ですよね」
裕也は、
その言葉に、少し救われた。
封筒を手に取る。
重さは、
相変わらず、紙一枚分だ。
それが、
人生の重さになるなんて、
誰が想像するだろう。
「……もし」
裕也が言う。
「もし、
ここに書いてあることが、
あなたを傷つけるなら」
沙月は、首を振った。
「もう、
傷つかないと思います」
それは、
強がりでも、
覚悟でもあった。
裕也は、
ゆっくりと、封を切る。
中身を取り出す直前、
ふと、手が止まった。
沙月と、視線が合う。
その瞬間、
裕也は思った。
もし、
何も知らなかった頃に戻れるなら、
戻りたいか。
答えは、
すぐに出た。
――戻れない。
そして、
戻らなくていい。
封筒の中から、
紙が、半分ほど姿を現す。
名前は、
まだ、見えない。
外では、
雪が静かに降っていた。
この夜が、
終わったとき、
自分たちが何者になるのか。
それは、
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ、
確かなことがあった。
この冬の約束は、
ようやく、
言葉になる直前まで来ている。




