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社会人編 第9章  触れてはいけない話

 雪は、もう特別なものではなくなっていた。


 朝、駅までの道に残る白。

 夕方、溶けかけた歩道。

 それらは、ただの冬の日常だった。


 裕也は、休みの日に古い市役所の前に立っていた。


 特別な決意があったわけではない。

 ただ、気づいたら、ここに来ていた。


 戸籍課。


 文字にすると、やけに現実的で、

 自分のこととは思えない。


 番号札を取って、

 ベンチに座る。


 周囲には、

 赤ん坊を抱えた夫婦や、

 書類を抱えた年配の人。


 誰もが、自分の生活の続きをしている。


 ――自分だけが、

 立ち止まっている気がした。


 呼ばれて、窓口へ行く。


「……戸籍の写しを、お願いしたいんですが」


 声は、思ったより落ち着いていた。


 手続きを進める中で、

 裕也は、職員の表情が

 一瞬だけ変わるのを見逃さなかった。


「少々、お時間いただきますね」


「はい」


 それだけだった。


 でも、その“間”が、

 すべてを語っている気がした。


 受け取った封筒は、

 やけに薄かった。


 中身を開く勇気は、

 その場では出なかった。


 ――――


 その夜、

 裕也はカフェに立っていた。


 いつもと同じ場所。

 いつもと同じカウンター。


 違うのは、

 胸の奥に、

 紙一枚分の重さがあること。


 閉店間際、

 ドアベルが鳴った。


 沙月だった。


 久しぶり、

 というほどではない。


 でも、

 やはり間が空いている。


「こんばんは」


「……こんばんは」


 視線が、一瞬だけ交わる。


 沙月は、カウンターに座り、

 少し迷ってから言った。


「今日は……

 時間、大丈夫ですか」


 裕也は、

 封筒の存在を思い出し、

 それでも頷いた。


「ええ。もうすぐ閉めますし」


 コーヒーを淹れる手が、

 わずかに、遅れる。


 沙月は、そのことに気づいた。


「何か……ありました?」


 問いは、

 穏やかだった。


 でも、

 逃げ道を残さない聞き方だった。


 裕也は、一瞬だけ、

 笑おうとして、やめた。


「……自分のことを、

 調べてました」


 その言葉に、

 沙月の指が、カップの縁で止まる。


「過去とか。

 家族とか」


 沈黙が、

 二人の間に落ちた。


 避けてきた話題。

 触れないようにしてきた場所。


 でも、

 もう戻れなかった。


「……どうして?」


 沙月の声は、

 小さかった。


 裕也は、正直に答えた。


「誰かが、

 自分を見て、

 苦しそうな顔をしたから」


 沙月は、息を飲む。


 それが、自分だと、

 分かっていた。


「……私」


 言葉が、

 勝手に出てしまう。


「私、あなたのことを、

 誰かと重ねてた」


 言ってはいけないと、

 分かっていた。


 でも、

 もう止まらなかった。


「似てる人がいて……

 いなくなった人がいて」


 裕也は、

 黙って聞いている。


 逃げない。


 その姿勢が、

 沙月を、さらに追い込んだ。


「それで……

 あなたに会ってから、

 ずっと、

 混乱してた」


 沙月は、

 自分でも驚くほど、

 落ち着いていた。


 泣きもしない。

 声も震えない。


 ただ、

 事実を並べているだけ。


「……ごめんなさい」


 最後に、そう言った。


 裕也は、

 しばらく何も言わなかった。


 それから、

 カウンターの下から、

 封筒を取り出した。


「今日、これをもらいました」


 沙月は、

 その薄さを見て、

 胸が締めつけられる。


「まだ、開けてません」


 裕也は言う。


「でも……

 開ける理由が、

 分かった気がします」


 沙月は、

 何も言えなかった。


 この瞬間を、

 ずっと避けてきた。


 でも、

 避けていたのは、

 真実ではなく、

 自分の覚悟だったのだと、

 今は分かる。


 店の外では、

 雪が静かに降っている。


 約束は、

 まだ、形になっていない。


 それでも、

 二人はもう、

 戻れない場所に立っていた。

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