社会人編 第8章 思い出は、優しくなかった
その夜、沙月は珍しく、早く眠れなかった。
部屋の灯りを落としても、
目を閉じると、
静かな映像が浮かんでは消える。
高校の帰り道。
少し冷たい風。
自転車を押しながら、
並んで歩いた横顔。
直樹は、よく笑う人だった。
大きな声ではなく、
どこか遠慮がちで、
それでも確かに、こちらを見ていた。
――あの頃の私は、
ちゃんと見ていただろうか。
沙月は、布団の中で小さく息を吐いた。
思い出は、
時間が経てば美しくなるものだと、
ずっと思っていた。
でも、それは違う。
思い出は、
何も言わずに、
そのまま残っているだけだ。
美しく見えるのは、
こちらが、
都合よく輪郭を削ったから。
机の引き出しを開けると、
小さな箱が出てきた。
中には、
古いスマートフォンが入っている。
電源は、もう入らない。
それでも、
指が自然に、その表面をなぞった。
直樹から最後に届いたメッセージは、
とても短かった。
明日、ちゃんと話そう。
その「明日」は、
結局、来なかった。
沙月は、その事実を、
今まで“事故”や“運命”の中に
押し込めてきた。
でも――
もし、あれが選択だったとしたら。
直樹は、
来ないことを選んだのだとしたら。
沙月は、初めて、
その可能性を、拒まなかった。
胸が、少しだけ痛む。
でも、
崩れるほどではない。
むしろ、
何かが、静かに落ち着いていく。
「……そうだったんだ」
誰に向けるでもなく、
呟いた。
直樹は、
優しい人だった。
でも、
強い人ではなかった。
沙月は、
そのことを、ようやく受け入れた。
愛されていなかったわけじゃない。
ただ、
一緒に進めなかっただけ。
それは、
裏切りでも、運命でもない。
ただの、
人間の限界だ。
窓の外では、
雪が静かに積もっていく。
白く覆われた街は、
何もなかったような顔をしている。
沙月は、
ふと思う。
もし、
あの冬に戻れたとしても、
きっと同じ結果だっただろう。
そう思えたことが、
少しだけ、救いだった。
直樹の記憶は、
もう、祈りではない。
後悔でも、
縛りでもない。
ただ、
過ぎた時間の一部として、
そこにある。
沙月は、
スマートフォンを箱に戻し、
引き出しを閉めた。
完全に手放したわけではない。
でも、
抱え続ける必要もなくなった。
雪は、
音もなく降り続いている。
冬は、
まだ終わらない。
それでも、
この冬の中で、
ひとつの約束だけが、
静かに形を変えた気がした。




