社会人編 第7章 名前を呼ばれない距離
その日から、沙月はカフェに来る回数を減らした。
来なくなったわけではない。
ただ、間が空くようになった。
裕也は、カウンターの向こうで、
それに気づいていた。
気づいていながら、
理由を聞くことはできなかった。
――忙しくなったのだろう。
――気分が変わったのだろう。
そう思おうとした。
でも、
それだけでは説明できない何かが、
確かにあった。
久しぶりに沙月が現れたのは、
雪が本格的に降り始めた夜だった。
「こんばんは」
声は、以前と同じ。
表情も、変わらない。
それなのに、
空気が違った。
「こんばんは」
裕也は、
無意識に名前を呼びかけそうになって、
やめた。
理由は分からない。
ただ、
呼んではいけない気がした。
沙月は、カウンターに座ると、
短く言った。
「いつもの、お願いします」
裕也は頷き、
黙ってコーヒーを淹れる。
以前なら、
その沈黙は、心地よかった。
今日は、
少しだけ遠い。
カップを置くとき、
沙月の視線は、カップの中に落ちたままだった。
「……寒くなりましたね」
裕也が、探るように言う。
「そうですね」
それ以上、会話は続かなかった。
雪が、窓の外で、静かに舞っている。
裕也は、その雪を見ながら思う。
彼女は、
ここに来ているのに、
ここにはいない。
コーヒーを飲み終え、
沙月は立ち上がった。
「ありがとうございました」
その言葉も、
以前と同じ。
でも、
もう何も含んでいなかった。
ドアベルが鳴り、
沙月の背中が、雪の夜に溶けていく。
裕也は、
しばらくその場を動けなかった。
胸の奥に、
小さな痛みが残る。
理由は分からない。
でも、
このまま何も聞かなければ、
何かを失ってしまう。
そんな予感だけが、
はっきりとあった。
閉店後、
店の灯りを落としながら、
裕也はふと、自分の記憶に触れようとした。
小さい頃のこと。
家族のこと。
いつもなら、
そこには何もなかった。
でも今夜は、
雪の向こうに、
知らないはずの影が立っている気がした。
名前は分からない。
顔も、思い出せない。
それでも――
自分が誰かの代わりではないか、
そんな考えが、初めて浮かぶ。
裕也は、カウンターに手を置き、
小さく息を吐いた。
知らないままでいるのは、
もう、楽ではなかった。
外では、
雪が音もなく降り続いている。
この冬は、
誰かの心を、静かに変え始めていた。




