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社会人編 第6章  帰り道に、残ったもの

 その日は、雪が降る気配だけを残して、空はまだ持ちこたえていた。


 沙月と真紀は、駅から家までの道を並んで歩いていた。

 用事があったわけではない。

 夕食を一緒に食べただけだ。


 それなのに、

 沙月の胸の奥は、最初からざわついていた。


「寒くなったわね」


 真紀が、マフラーを直しながら言う。


「……うん」


 返事は短くなる。


 街灯の光が、二人の影を細く伸ばす。

 足音だけが、やけに大きく聞こえた。


 少し歩いたところで、

 沙月は足を止めた。


「お母さん」


 呼び止める声は、

 思ったより落ち着いていた。


 真紀も立ち止まり、

 何も言わずに沙月を見る。


「……私、最近ね」


 言葉を探す間、

 冷たい空気が肺に入る。


「直樹に、似てる人に会ったの」


 その名前を口にした瞬間、

 胸が、ほんの少しだけ痛んだ。


 真紀は、驚いた顔をしなかった。


 ただ、目を伏せただけだった。


「似てる、だけじゃない」


 沙月は続ける。


「声も、横顔も……

 でも、性格は全然違う」


 少し笑おうとして、

 うまくいかなかった。


「……その人、

 家族のことを、あまり覚えてないって言った」


 そこまで言って、

 沙月は母を見た。


 真紀は、ゆっくり息を吐いた。


 そして、歩き出す。


「……歩きながら、話しましょう」


 それが、

 逃げではないことを、沙月は感じ取った。


 真紀は、前を見たまま言う。


「あなたが思っているほど、

 複雑な話じゃないわ」


 でも、

 簡単でもなかった。


「昔……

 私が若かった頃の話」


 過去形で語られる言葉は、

 どこか遠い。


「事情があって、

 ひとりの子を、手放した」


 それ以上、説明はなかった。


 理由も、

 経緯も、

 相手のことも。


 ただ、

 事実だけ。


「……それが、

 その人?」


 沙月の声は、

 震えていなかった。


「可能性は、高いと思う」


 真紀は、そう言った。


 “あなたの兄弟かもしれない”

 その言葉は、使われなかった。


 でも、

 使われなくても、十分だった。


「どうして……

 今まで言わなかったの」


 問いというより、

 確認だった。


 真紀は、少しだけ歩幅を緩める。


「言わないことが、

 あなたを守ると思ったから」


 それは、

 母親としての答えだった。


 正しいかどうかは、

 分からない。


 でも、

 嘘ではない。


 沙月は、立ち止まった。


 胸の奥にあったものが、

 音もなく、落ちていく。


 悲しい、より先に――

 空っぽだった。


 直樹の不在。

 裕也の存在。

 母の沈黙。


 それらが一本の線で繋がった瞬間、

 何かが完成してしまった気がした。


 そして同時に、

 何も残らなかった。


「……そう」


 それだけ言って、

 沙月は歩き出した。


 真紀は、追いかけてこなかった。


 家の前で別れるとき、

 雪が、ようやく降り始めた。


 小さく、静かに。


 沙月は空を見上げる。


 約束は、

 守られなかったわけじゃない。


 ただ、

 誰にも渡されなかっただけだ。


 冬の夜は、

 その事実を、淡々と受け止めていた。

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