社会人編 第5章 知らないままのほうが、楽だった
雪は、降ったり止んだりを繰り返していた。
積もるほどではない。
ただ、街の輪郭を、少しだけ曖昧にする。
その夜、沙月は仕事を早めに切り上げ、
いつものカフェへ向かった。
理由は、特にない。
そう言い聞かせながら、
無意識に足はそこへ向かっていた。
「こんばんは」
ドアベルの音に続いて、
聞き慣れた声が返ってくる。
「こんばんは」
裕也は、いつもと同じようにそこにいた。
それが、なぜか今日は、
少しだけ不安になる。
同じ場所に、同じ人がいる。
それが当たり前でないことを、
沙月はもう知ってしまっているから。
「今日は……遅いですね」
「ええ、ちょっと」
カウンターに座ると、
裕也は何も聞かずに、同じコーヒーを淹れ始めた。
注文しなくても分かる、という距離。
それが嬉しくて、
同時に、怖い。
「この仕事、長いんですか?」
ふいに、沙月が聞いた。
裕也は少しだけ考えてから、答える。
「……どうでしょう。
長いような、短いような」
曖昧な言い方。
「前は、別のことをしてました」
「どんな?」
「色々です」
色々。
その一言に、
何かを閉じる音がした気がした。
沙月は、それ以上踏み込まなかった。
でも、胸の奥に、
小さな引っかかりが残る。
「裕也さんって……
自分の昔のこと、あまり話さないですよね」
言ってしまってから、
少し後悔する。
問い詰めるつもりはなかった。
ただ、確かめたかっただけだ。
「……そうかもしれません」
裕也は、視線を落としたまま言う。
「覚えていないことも、ありますし」
「覚えていない……?」
「小さい頃のこととか。
家族のこととか」
その言葉が、
胸に、静かに沈んだ。
家族。
沙月の中で、
ひとつの可能性が、形を持ち始める。
「不思議ですね」
沙月は、そう言うしかなかった。
「ええ。でも……」
裕也は、少しだけ笑った。
「知らないままのほうが、
楽なこともありますから」
その言葉は、
自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
店を出るとき、
雪はさっきよりも少し強くなっていた。
夜の街が、
白く、静かに包まれていく。
沙月は、駅へ向かう途中で足を止め、
ふと振り返る。
カフェの灯りは、
変わらずそこにあった。
――――
その週末、
沙月は再び実家を訪れた。
居間には、母・真紀が一人でいた。
「お茶、飲む?」
「うん」
何気ないやり取り。
でも、沙月の心は、少しだけ決まっていた。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「……もし、
私が知らない“家族のこと”があったら」
真紀の手が、
また、止まる。
「……どうして、そんなこと聞くの」
「なんとなく」
沙月は、母の顔を見た。
逃げ場を与えない距離で。
真紀は、しばらく黙ってから、
小さく息を吐いた。
「……知らないほうが、
幸せなこともあるのよ」
その言葉は、
否定ではなかった。
肯定でもなかった。
ただ、
“選ばなかった過去”の音がした。
沙月は、それ以上聞かなかった。
でも、もう分かっていた。
これは偶然ではない。
雪が、窓の外で、静かに降り続いている。
この冬は、
まだ、終わらない。




