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社会人編 第4章  触れなかった名前

 その後、沙月はそのカフェに何度か足を運んだ。


 理由を聞かれたら、

 仕事帰りにちょうどいいから、と答えるだろう。


 それは、嘘ではなかった。


 ただ――

 それだけでも、なかった。


「こんばんは」


 そう声をかけると、

 カウンターの奥の彼――裕也は、軽く会釈をした。


「こんばんは。今日は寒いですね」


 当たり前の言葉。

 でも、その“当たり前”が、少しずつ積み重なっていく。


 沙月は、同じ席に座るようになっていた。

 特別に決めたわけではない。


 気づいたら、そうなっていただけだ。


「この前のコーヒー、美味しかったです」


「よかった。好み、合いそうですね」


 その言い方に、

 沙月は一瞬だけ笑った。


 合う、という言葉が、

 なぜか胸に残る。


 裕也は、必要以上に話さない。

 でも、聞くときはちゃんと聞く。


 沈黙も、気まずくならない。


 それが、直樹と決定的に違うところだった。


 ――似ているのに、違う。


 その事実を、

 沙月はようやく受け入れ始めていた。


「お仕事、忙しそうですね」


「まあ……普通です」


 普通、という言葉の中に、

 何年分もの時間が詰まっている気がして、

 沙月はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、

 カップの縁を指でなぞる。


「……裕也さんは、ずっとここで?」


「いえ。ここに来たのは、ここ数年です」


 数年。


 その言葉が、

 静かに胸に引っかかる。


 でも、沙月は掘り下げなかった。


 聞かない、という選択を、

 大人になってから覚えたから。


 店を出るとき、

 雪はまだ降っていなかった。


 それなのに、

 空気だけが、冬の匂いを含んでいる。


 ――――


 その夜、沙月は実家に顔を出した。


 特別な用事があったわけではない。

 ただ、なんとなく。


「おかえり」


 キッチンに立つ母・真紀が、

 いつも通りの声で言う。


「ただいま」


 靴を脱ぎながら、

 沙月はふと、聞いてみた。


「ねえ、お母さん」


「なに?」


「……人ってさ、

 すごく似てる他人に、会うことってあると思う?」


 真紀の手が、

 一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬。

 気のせいと言われれば、そう思える程度。


「……どうしたの、急に」


「いや、なんとなく」


 沙月は、母の横顔を見る。


 真紀は、鍋の中をかき混ぜながら、

 少し間を置いて答えた。


「似てる、だけなら……あるかもね」


 声は平静だった。

 でも、その言葉の選び方が、

 どこか慎重すぎる。


「でも……」


 真紀は、続けかけて、

 やめた。


「でも?」


「……なんでもないわ」


 その否定が、

 逆に、沙月の胸に残った。


 食卓に座りながら、

 沙月は思う。


 母は、

 何かを知っている。


 でも、

 今はまだ言わない。


 その沈黙が、

 初めて、音を立てた気がした。


 窓の外を見れば、

 いつの間にか、細い雪が舞い始めている。


 沙月は、その雪を見つめながら、

 心の中で、名前を呼ばなかった。


 呼んでしまったら、

 戻れなくなる気がしたから。

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