高校生編 第1章 遅刻ギリギリの朝
――朝のニュースの音が、遠くで鳴っている。
玄関のドアを閉めた瞬間、冷たい空気が頬に当たった。
沙月は一瞬だけ立ち止まり、深く息を吸う。
冬の朝は、音が少ない。
車の走る音も、人の気配も、どこか遠い。
腕時計を見る。
7時48分。
「……まずい」
独り言が白くなって、すぐに消えた。
歩道を早足で進む。
アスファルトに当たるブーツの音が、一定のリズムを刻む。
マフラーの端が、走るたびに揺れた。
転校してきて、まだ一週間。
この道も、この時間も、まだ自分のものになっていない。
角を曲がった、その瞬間だった。
視界に、急に人影が入る。
「……っ」
ぶつかる寸前で、二人同時に足を止めた。
「ごめん」
低い、落ち着いた声。
顔を上げると、同じ制服の男子が立っていた。
肩にかかる息が白く、コートの襟元に朝の光が当たっている。
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……いえ」
そう答えながら、沙月は相手の顔から目を離せなかった。
派手ではない。
でも、なぜか視線が引っかかる。
「急いでる?」
問いかけに、はっとして時計を見る。
「はい。遅刻ギリギリで」
「俺も」
男子は短く言って、前を向いた。
「ここからだと、走らないと危ない」
言い切る口調が、妙に現実的だった。
「……一緒に行く?」
沙月は一瞬迷ってから、うなずいた。
二人で並んで歩き出す。
自然と、歩幅が揃った。
信号の音。
遠くで鳴るクラクション。
足音が、二人分になる。
「転校生?」
「……はい」
「そっか。見ない顔だと思った」
それだけ言って、また沈黙。
でも、不思議と居心地は悪くなかった。
校門が見えた瞬間、チャイムが鳴った。
乾いた音が、冬の空気に響く。
「……間に合うかな」
沙月がそう言うと、男子は少しだけ歩く速度を上げた。
「大丈夫。まだ、間に合う」
根拠はないのに、その言葉は信じられた。
校舎の前で、二人は自然に足を止める。
「……名前」
沙月は、思い切って聞いた。
男子は一瞬驚いたように目を瞬かせてから、答えた。
「直樹」
「……沙月です」
「沙月」
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥が、ひんやりと震えた。
「じゃあ、また」
直樹はそう言って、校舎の中へ走っていく。
沙月は、その背中を見送った。
制服の裾が揺れ、
人の流れに紛れて、すぐに見えなくなる。
――ただ、それだけの朝。
なのに、なぜか思った。
この光景を、きっと忘れない。
理由は、まだ分からなかった。
冬の空気と、
すれ違った横顔と、
名前だけが、
胸の奥に静かに残っていた。




