第三話「境界線上のソドム」2
「今日は何を演奏するのですか?」
心の内を悟られぬよう、間髪入れず本題へと入るエリサ。
マリアンナはルビーのような赤い瞳でエリサの姿を覗き込むと、少し目付きを変えて、赤い唇を開いた。
「パッフェルベルのカノンを。いいでしょう? こういう昼下がりには」
「そうですね。僕も好きです。母様と奏でる、カノンのユニゾンは」
エリサは白と黒の鍵盤に細くしなやかな指先を添えて、マリアンナは腹部に手を添えて息を吐き出し、腰を伸ばして呼吸を合わせる。
繰り返された日常として慣れ親しんだ母娘のひと時。こうして幼い頃から二人はピアノレッスンを繰り返してきた。
静寂の部屋に流れる時計の針がさらに導入のタイミングを合致させる。
そして、マリアンナが息を吸い込んだ直後、エリサは意識を鍵盤に集中させ演奏を開始した。
鍵盤を押す指先に力を込め、流れ出す清流のように透明かつ洗練された濁りのないピアノの旋律。鼓膜を揺らす心地いいカノンのメロディー。
それに合わせて歌い上げる、マリアンナの歌声。
オペラ歌手として音楽を愛し続けるマリアンナの歌声は力強く、そして大人の色気と情緒的な儚さを秘めたソプラノの音色。
それは少女の歌声のようにピアノを奏でるエリサの演奏と魅惑的に混じり合い、美しいハーモニーを部屋に響かせる。
惚れ惚れとする二人の共演は自然と鼓膜を揺らし、疲れた心を癒し、穏やかにさせるヒーリング効果を持った演奏であった。
譜面をなぞることなく一通り、レッスンを終えて、ティータイムで疲れを癒すエリサとマリアンナ。
部屋には備え付けられたレコードからシューベルトやバッハ、ブラームスやチャイコフスキーといった古き良き時代の作曲家達のクラシック音楽を流していた。
「古典的なメロディーですね。私達はこの曲が生まれた時代のことをもう知りません」
エリサは湯気を上げるティーカップを片手に、身体の内側に染み行く懐かしさを慈しむようにマリアンナへ呟いた。
「この心地いいと感じる感覚は遥か昔から息づいているDNAがそうさせているのでしょう。歴史が失われても、音楽は残り続ける。音楽は歴史を伝えるものではないから、音楽だけが残されたのよ」
人が過ちを繰り返さないために、歴史が失われたとしても、音楽は残り続ける。文化的に豊かな時代が残してくれたものが、今を生きる人達の心を豊かにしている。二人は演奏が終わった後も同じ余韻に浸った。
「不思議なことです……。僕達は歴史の上に立っているのに、独自の歴史観を持っている」
「不思議なことじゃないわ。カノンの大逆循環は美しい曲を作りやすい黄金コード。自然と耳に残ってしまうから、歴史を感じる間もなく似たものが作り出されていくのよ」
歴史を紡ぎ、流行り廃りがあれど、人の持つ根源的な感性は変わらない。
女性的な感性で創り出された国家は今も理想を追い掛け続けている。
それを裏付けるようにこうしてエリサは失われた文明の時代から残されている音楽をマリアンナと楽しんでいるのだった。
久方振りに母娘二人でピアノレッスンの時を過ごす。マリアンナにとっては心労が絶えない公務の息抜きのような時間。エリサにとってはクオン以外の従者が傍に控える夕食とは違う、余計な視線を気にする必要のない二人きりの時間だった。
陽が傾き始め、カモミールティーの香りが辺りから溶け去った頃、大皿に盛られたクッキーへと伸ばす手を止めたエリサは、部屋を後にする前に未だ拭う事の出来ない疑問をマリアンナへ投げかけた。
「母様はどうして僕を殺さなかったんですか? 男の僕を女として育てるような真似をして」
「女として育てているつもりはないわ。何度も言ったでしょう……。貴方にはどちらの性も選べる権利があると」
生まれたばかりの胎児に退行してマリアンナの記憶に眠る過去と同じものを鑑賞することはできない。だからこそ、エリサにとってこれは解き明かすことが困難な長年の問いであった。
何故、自分は産まれてしまったのか。
このシカリア王国において、男性の出産は許されていない。
間違って誕生したとしても、その子どもに生存権はない。
それは国民が等しく受け入れて来た、秩序を維持するための制約であったはずだ。
破られてしまった制約の上に自分は生きている。そのことに疑問を抱かずはいられない。
マリアンナはエリサの問いに納得のいく返答をすることはなく、一年後に成人を迎えるエリサ自身に自らの性を選ぶ権利を委ねた。
「母様はどうしてそこまで僕にこだわるのですか?」
「出産の後遺症で私にはもう子を産む力はない。私のお腹から生まれ育った貴方だけがこの国を継ぐに相応しいのよ」
「僕は女王の器ではありません」
「いいえ、この国を任せられるのは貴方だけよ。今日まで生き抜いてきたことがその証明。来年、王位継承権を持つエリサの対立候補は必要ない。自らの思惑を達成するために、担ぎ上げるものが現れないようにするためにもね」
「でも、僕が母様の意志を受け継ぐとは限りません、それでも良いのですか?」
「問題ないわ。ケインズを貴方の師に遣わせているのは全て、この国の将来を憂いでのこと。今の間に多くを学べばこれ以上の間違いは起きないでしょう。
男であることを受け入れて生きるのなら自分の性を呪いなさい。国民と同じ女になることを望むのならケインズ先生を頼りなさい。母を恨んででもこのシカリア王国の民を支えるのが王家の人間の務めよ」
問答の果てに繰り出された母の言葉を飲み込むエリサ。
頑なに語り掛けるマリアンナの言葉にどれほどの本音が込められているか、エリサには察することはできない。
ただ、定められた運命は避けられないものとして、エリサの目の前に変わることなく横たわっていた。




