第三話「境界線上のソドム」1
研究施設で長居をしてしまい、エリサは遅い昼食を摂ることになった。
昼食後、自室に戻って読書に耽っていると、暫く経ってクオンが呼び出しにやって来た。
「ピアノレッスンの時間です。マリアンナ様がお待ちしていますので、お急ぎください、王子」
急かすクオンの言葉に渋々本を置き、椅子から立ち上がるエリサ。
まだ午前中の出来事が脳内を巡り、モヤモヤとした感情が蠢いていたが、母を待たせるわけにはいかず、エリサはクオンの指示通りに自室を後にした。
女王としての公務は多岐に渡るため、夕食の時間以外で同じ時間を過ごすことは成長と共に少なくなった。
第一王子としての習い事は数多くあるが、一人で読書をする時間やケインズやチャックの授業以外は退屈で気乗りしない。
しかし、忙しい合間縫って時間を作ってくれた、母親が直接指導をしてくれるピアノレッスンを断ることは出来ない。
エリサは女王の逆鱗に触れないよう言いつけを守り、レッスン用のドレスに着替えて、女王の待つ部屋を訪ねた。
「母様、失礼します」女性として振舞うことを強いられているような心地で女王、マリアンナ・ベレスティーと対面したエリサ。
エリサはマリアンナが望むようにいずれ自分が女王になることも、女性になることも心から受け入れているわけではない。そのため、演奏会で着る機会があったとしても、ドレスコードに慣れているわけではなかった。
「エリサ、よく来てくれたわね。さぁ、こっちにいらっしゃい」
歓迎する母の声が、エリサに届く。
蛍光灯のない世界。窓から差し込む陽の光がまるで仕組まれたようにグランドピアノを照らし出す。まるで劇場で使うスポットライトみたいに。
エリサははっとそれに気付き、誘われるままにスカートの裾を軽く摘まみ、ゆっくりとした歩幅でマリアンナの真横に置かれたピアノ椅子に着席した。
「今日はご機嫌ですね」
「雲の隙間から差し込む光には独特の美しさがあるわ。もうすぐ民が待ち望んでいた祝福の雨が来る。この乾いた大地にも神は降りる。見捨てられてはいないのよ」
神に縋らなければ未来すら描けない。雨の後に架かる虹を願うように、マリアンナは祝福の雨が乾いた大地を潤すのを願っていた。それは民を想って願う、慈愛の精神そのもの。エリサは感情的になることなく、穏やかな母の姿を受け入れた。
「今日は何処に行っていたの?」
「昨日、帰国したケインズ先生のところに。ケインズ先生のお話しはとても知的好奇心をくすぐります。教科書に記された学問を学ぶのとは、全く違う性質を持ち合せています」
「それはそうでしょう。教科書に載っている歴史はシカリア王国の歴史そのもの。その領域を超えた世界の歴史を記してはいない。でも、ケインズ先生は違うわ。あの人はこの世界の歴史を追い掛け続けている。だから、見えているものが私達とは根本的に違うのよ」
「確かに、そう思います」
「私とは違って勉強熱心な貴方ならより理解できるでしょう。ケインズ先生に貴方を任せたのは正解だったわね」
真実は残酷だ。午前に教わったことを振り返りながらエリサは思う。
まだ、マリアンナは気付いていない。エリサの胸の内に宿った疑念を。
当たり前のようにこの国で受け入れられている、歪な慣習に対する違和感を。




