第十ニ話 「傍に在ったのは」
「桜に会いたい」
それは吐き出したような望みだとか、願いだとかの情けないものではない。
明確に弥生自身の意志からくる、義務感を持ったものであった。9歳に彼女が見せたあの笑顔の意味がそれなのならば、弥生は彼女にもう一度会わなければならない。
待ってましたと言わんばかりに、葛藤中には口を開かなかった『弥生』が話しかける。
「会ってどうする?」
「彼女を助ける」
即答であった。弥生の意志は揺るがない。
「だが、彼女を助けるということ、彼女を味方にするということはつまり、『安倍家』に立てつくということだ。貴様にその覚悟はあるのか?」
『弥生』の質問に一瞬迷いが生じる弥生。
彼が言ったことは正しいと受け入れたからだ。『安倍家』は京都を何百年も支配してきた強大な一族。しかも彼らは特別な術を使うことができるのだ。
たった一人の少年が勝てるというのか。
ふと、弥生はあるものを見る。
彼の人生に常に傍に在ったもの。彼の人生の、身体の一部ともいえるもの。
ゆっくりと壁に立て掛けてあるそれを手に取り、身を抜く。
銀色に輝く刀身は鏡のようで、最初は弥生の不安が現れている目を映している。
刀は弥生の一部。だから刀の柄を握れば彼の「剣士」としての人生の記憶が頭の中にどんどんと浮かんできた。
厳しい修行の記憶、桜と初めて会ったときの記憶、幾度の試合の記憶。
刀を握るものは、常に己との戦いだ。己と向き合い、己を磨き、己を超える。
この繰り返しこそが「剣士」の人生。
しかし、その中でただ一人、彼に問いかけるものがいた。
『弥生君。君が剣を持つ理由はなんだっぺ?』
弥生はその問いに答えられなかった。なぜなら答えを持っていなかったからだ。
だけども今なら弥生は答えることができるかもしれない。
「ずっと、生まれてきてからずっと俺は刀を握ってきた。ただなんとなくだ。けれど一年前、なぜ刀を握るのかって。あのときは答えられなかったけど、今決めた」
一息つき、腰に刀を差して頭に浮かんだ考えを言葉にする。
「桜を守るため、俺は刀を振るう。俺が歩んできた16年の歳月の重みと技術で、俺は安倍家に抗ってやる!」
もう一人の自分に対して弥生は宣言した。まっすぐに彼の眼を貫いて。さらに刀身を見れば迷いはもうない。
答えた瞬間に弥生の身体がズンと重くなったような気がした。責務、いや義務が心に根付いたのだ。
それと同時にもう一つの答えを得た気がする。遥か昔から持っていた疑問の。
「それでよい。武御雷家は常勝を意味する一族だ。自信を持つがいい」
『弥生』の言葉で初めて己の家名に感謝する弥生。
今すぐに行動を起こしたい、迷っている暇はないからだ。明日には彼女はどこか遠くの所に飛ばされてしまうだろうから。自分の手に届かない場所に。
自室の扉へと向かう弥生だが、
「すまないね。こうしないと面倒なことになりそうで」
背後の『弥生』が耳元で呟いたと思えば、弥生は首元に痛みを感じて意識を失った。
***
弥生は目を覚ますとベッドに横たわっていた。
先ほどの出来事はどうやら夢の中だったらしい。非常に鮮明でリアルではあったが。
ひとつひとつ思い出していくうち、大事なことに気づく。
「今何時だ⁉」
意識を100%覚醒させて時間を確認する。深夜ならば新幹線には間に合わない。せっかく決心したというのに行けなければ意味はない。
時計を見れば時刻は、
八時ちょうど。諸々の支度をすれば終電には間に合うギリギリの時間だ。
すぐに身支度を整えて部屋を飛び出すが、
扉を開くと部屋の前に沙耶香が立っていた。
「どうかしましたか?」
いつも通りのふるまいの沙耶香に弥生はほんの少しだけ申し訳なさを感じてしまった。
桜を選ぶということは沙耶香を選ばないということ。
三ヶ月一緒に生活してきて、彼女からの好意は本物だということは理解している。ゆえに沙耶香を裏切ることに負い目を感じているのだ。だからといって立ち止まるわけにはいかない。
「コートを、持って来てくれるかな?」
「……わかりました」
何も聞くことなく沙耶香は外出用のコートを取りに行った。コートを取りに廊下を歩く彼女の後姿はいつもと同じであった。
***
武御雷家の古めかしい玄関。
靴を履き終わると同時に沙耶香はコートを運んできた。
彼女からコートを受け取り、袖を通して準備を終わらせた弥生は一分一秒でも早く桜の元へ行かんと玄関の扉を開こうとしたとき、
「彼女に会いに行くのですね」
背後の沙耶香はそう呟いた。
もしこの言葉でなかったのならば弥生は止まらなかっただろう。
驚きつつ振り返ると沙耶香はいつものように笑っていた。だが玄関に電気がついていなかったせいも相まって彼女は不思議と怖く見えた。
「知って……いたのか? 桜さんのこと」
呆然と聞く弥生に沙耶香は顔色一つ変えることなく答える。
「ええ。だって私は、彼女からあなたを奪うためにこの結婚を仕組んだのですから」
沙耶香が浮かべる優雅な笑顔は暗闇の中というのも相まってまるで氷の女王のような冷たく、残忍なものだった。少なくとも、一瞬冷静さを失いそうになった弥生にはそう見えた。
「ずっとあなたが欲しかった。けれどあなたの隣にはあの女性がいた。一年に一度しか会えない関係でも、あなたの隣には彼女がいたし、あなたは彼女しか見ていなかった」
声色一つ変えない沙耶香ではあるがその言葉の節々に怨念じみたものが感じられる。
彼女を問い詰めたかったし、怒りをぶつけたかった。
だが時間はない。一秒の猶予もない。
その判断で冷静さを取り戻すと心も落ち着いてくる。何をすればよいかを理解し、飲み込む。
「……さようなら」
彼女と目を合わせるなく弥生は玄関から外へ出る。
何か言葉をかければと考え、吐き出すように声をかけたが、そこには多少の失望なりが混じっていたのは弥生自身気づかなかった。
***
弥生が出て行ってしまってからも、沙耶香は立ったままであった。
まるで扉越しに遠のく弥生の背中を見つめるように。
「本当に良かったのか?」
立ち尽くす沙耶香の背後より声をかけるものが。
声は誰のものでもない、彼女が愛したものである。
ゆえに彼女は振り向く。彼女もまた、その声でなければ振り向かなかっただろう。
電灯のついていない、古めかしい廊下を沙耶香に向けて歩く者。沙耶香の目に映ったのは他でもない、
先ほど出かけた武御雷弥生その人だ。
髪型から顔つきに至るまで弥生でしかない。だが表情だけは少し余裕を見せている。これから必死に思い人と会おうとするとは思えない。
「その姿をするのは……やめてください」
沙耶香は目の前にいる弥生を弥生とは思っていない様子。むしろこの夜で初めて沙耶香が顔色を変える。不快なものへと。
『弥生』は彼女の顰蹙を買ったことに少しだけ申し訳なさそうに思いつつも、口を開くことは止めない。
「しかし君も不器用だねえ。隠れていても君が嘘を言っていることがわかったよ。自分ではうまくだませたと思ったかい? たぶん彼もわかったんじゃないかな」
舞台の感想ようなことを言う『弥生』へ沙耶香は落ち着きつつも反論。
「嘘ではありません。ただ、遅かっただけです。今日も、七年前も」
沙耶香、銀刃寺沙耶香は思い出す。
七年前、あと十秒早く外に出ていればと、話しかければと何度後悔したことか。
けれど彼女は己の感情を誰にも話さない。ずっと思ってきた、願ってきた望みが砕かれても顔一つ崩さない。
もちろん彼女が平静を保っている理由に、『弥生』がこの場にいることもあるだろう。
必死に取り繕ったつもりであったが今の彼女は完璧には表情を作れなかったらしい。
闇ではない理由で『弥生』の顔がぼやけ、呼吸が震えているのだから。幼少期からいくら感情を抑える訓練を積んでも心の底からくる身体的反応は止められない。
さすがの『弥生』もかける言葉が見つからず、居心地が悪そうに頭をポリポリと掻くのみ。
「まあ、俺はまだやることがあるからね」
『弥生』はそう言って沙耶香の隣を通り過ぎ、彼女を一瞥することなく外へと出る。
光源である月が雲で隠れ、武御雷家は闇に染まっていく。
誰も一寸先が何も見えないこの現状は、彼女にとってある意味幸運だっただろう。




