第十一話 「意味」
桜から別れの言葉を告げられて三ヶ月。
沙耶香と一緒に暮らしたこの三ヶ月は幸せそのものと言えた。
彼女が作ってくれる料理は心がこもった暖かいものであったし、弥生の身の回りの家事はほとんどが彼女がやってくれた。もちろん申し訳なさで彼女をてつだうこともすばしば。
ときには刀の修行に付き合ってくれる。腕も相当なものであり、いい練習相手であった。毎日毎日が幸福と言えるものだ。
……そのはずだ。
……そのはずなのだ。
幸せなのに満たされない。いや、心がずっと薄暗い雲に覆われたような気分だと、弥生はそう感じていた。
二週間を過ぎる前に、弥生は沙耶香と桜よりも長い時間を共に過ごした。桜よりも濃密な時を過ごしたはずだ。
桜との時間よりも何倍も、何十倍もかけてようやく沙耶香と作った思い出が桜といっしょにいた時間の記憶を薄め始めた。
もちろん彼女と会いたいという願いが生じるときもある。けれどその都度、彼女の最後の言葉、
「さようなら」
の一言とともに、太陽のように明るい、|心の奥底から湧き出ている《●●●●●●●●●●●》笑顔が弥生の頭によぎる。
そうすると自然と諦めがついて、沙耶香との暮らしに集中できるのだ。
……一抹のしこりを残して。
風呂で体を洗った後、寝間着へと着替えた弥生は縁側を歩く。
月明りが彼を照らす。ほのかな明かりは温かさこそ感じないが、夜という恐ろしい時間の不安を拭い去ってくれるには十分だ。
(照らすだけでいい。自分がどこにいるかを知るだけで……)
もはやそう思えてしまった。
月を一人で眺めていると、ポケットに入れていた携帯電話が振動する。
弥生がポケットからそれを取り出し、画面を見ればメールが送られてきた。送り主は桜の従者、琉判だ。
『明日、桜様の婚姻の儀が行われます』
たった一文。タイトルはなく、ただその一言が送られた。
〈ログインできません〉
〈ログインできません〉
〈ログインできません〉
気が付けば弥生はその場で新幹線のチケットの予約サイトを開いていた。
どうやら彼自身まだ彼女に未練があったらしいと自覚する。それも無意識にサイトを開くまで。
けれどなぜかサイトにログインできない。パスワードも、IDも合っているはずなのに。
(ああもう、神にすら見捨てられたんだな…………)
目の下にどんどんと悲しみの塊が具現する。
流れていないはずなのに目元を隠しながら自室へと向かう。何人かすれ違ったような気はしたが覚えていない。
自室の扉を開き、部屋の明かりをつけぬままベッドへと倒れる弥生。
瞼を閉じれば桜との思い出がよみがえってくる。会いたいと願っているのだ。だから記憶が呼び起こされる。
初めて出会った頃から、ショッピングモールでの出来事まで。
ただそのすべてにノイズが走るのだ。
彼女の笑顔が塗り替えされる。三か月前に桜が最後に見せた、太陽のように明るい、|心の奥底から湧き出ている 《●●●●●●●●●●●》笑顔へと。
彼女の笑顔の意味を断言してから、そう思えてならない。
思い込みは記憶を書き換える。
(ずっとそうだったんだ。俺が眩しいと思っていたのは、ぜんぶ作り物……)
絶望にのまれながら弥生の意識は消えていった。
………………
…………
……
何分、いや何時間経っただろう。
目が覚めた弥生は体を起こす。三月にしては妙に湿気が高く、不快感を覚えた弥生はエアコンのリモコンを探す。
その瞬間、窓の近くに置いた椅子に人影が見えた。
すぐさま残っていた眠気が掻き消え、警戒しようと構えた弥生であったが次の瞬間心には驚愕の一色に染まる。
薄暗い部屋の中でもすぐにわかった。なぜならそこに座っていたのは、
弥生、彼自身だったからだ。
混乱する弥生だが桜と会えないという絶望でその感情の変化や起伏にたえることはできない。
逡巡ののち、弥生はこれを夢の中だと結論付ける。そうしなければ今の状況を受け入れることはできないからだ。
「行かないのか? 彼女の元へと」
椅子に座った弥生は弥生へとそう聞いた。彼の冷静さはまるで自分とは思えない。
立ったまま呆然としている方の弥生はかすれるように呟いた。
「…………行けないさ。それに、いっても彼女に会う資格はない」
「資格がない……とは?」
自分自身が目の前にいるからか、不思議と自分の思いを吐露しようと思えた弥生は取り繕うことなく心の内を話す。
「俺は桜さんといっしょにいると、楽しかったんだ。嬉しかったんだ。けれど……彼女はそう思ってなかった。ただでさえ窮屈な彼女の町で、俺は彼女に気を使わせていたんだ。そう思うと、彼女と顔を合わせることはできない……」
十二歳、十四歳、十六歳のときの後悔。思い返せばそのすべてに見せた笑顔はすべて弥生を安心させるもの。
桜が今ああなっているのは自分が原因だと思って申し訳なくなっているのだ。
表情が曇る弥生に対し、もう一人の『弥生』は逆に笑みを浮かべる。
「聞いている限り、それはただの思い込みでしかない。それが正しいとは限らないんじゃないか?」
「でも結局桜さんは不幸になった。俺は彼女を助けてあげられなかった。この後悔は消えない……」
ふがいなさから手で顔を覆う弥生を見て、『弥生』も笑みを消す。
数十秒の沈黙ののち、『弥生』は口を開く。
「……後悔とは何のためにあると思う?」
「………………知るか」
考えようとしない。その余裕すらない。
だが『弥生』は彼のぶっきらぼうな回答を無視して話を続ける。
「人、いや生物は〈痛み〉をもって学びを得る。そうやって生き、進化する。学びを得なければいつかは死ぬ。後悔とはいわば〈心の痛み〉だ。人は後悔することで次の行動の糧とし、成長する。後悔のない生き方、などというがそんなものは自分の成長から逃げているに過ぎない」
説教じみた『弥生』の話は弥生には、
届かない。
「ふざけるな! そんな高尚な言葉なんざ今の俺には何の意味もない! だって彼女は、彼女は俺にさようならって言ったんだ! あんな笑顔で!」
彼女の笑顔が、最後に見せた笑顔が弥生の脳裏によぎる。
太陽のように明るい、|心の奥底から湧き出ている 《●●●●●●●●●●●》笑顔。そのはずなのに弥生は彼女の笑顔が痛々しくてたまらない。ずっと彼女の笑顔に救われてきたはずなのに、最後の笑顔だけには弥生は心を痛めてしまう。
それをかき消すべく、いろんな彼女の笑顔を思い出そうとするも結局最後のそれに行き着く。
目をつぶり、頭の中の引き出しを出してはひっくり返すがまったくみつからない。
(さようなら)
桜の言葉が頭の中で木霊する。
(なんでそれなんだ!)
記憶をあさっても彼が捜しているのは見つからない。ただ、最後の笑顔だけ。
月光が、部屋に差し込む。
部屋の中が少しだけ見えるようになる。彼が探していたエアコンのリモコンも、机の上に置いてあった。
だが弥生はすぐにそれを取らない。机の上、リモコンの隣をみれば、銀杏の葉っぱが見えたからだ。
個々は夢の中。部屋に葉っぱがあっても気にはならない。
手に取って観るも、そこに銀杏はあるだけで、何色かはわからない。
月明りは弱すぎるからだ。
もっと大きな灯りが欲しい。
そう思う弥生だが次の瞬間部屋の電球がともる。スイッチを入れたのは『弥生』。
「これは……」
銀杏の葉はただの黄色ではない。朝日のような色をした葉。
彼女と初めて出会った寺に咲いていた銀杏の葉。
『おいしかったね!』
脳裏に桜の笑顔が、弥生が初めて見た彼女のまぶしい笑顔がよぎった。
太陽を直に見れば明るい光が瞼を焼き、残影が残る。その残影が起因となって弥生に桜の真の笑顔を思い出させる。
9歳、別れを惜しむ弥生に向けたもの。
10歳、再び寺で二人が再会できた時のもの。
13歳、会えなかったはずの二人が会えた時のもの。
14歳、失敗続きのデート中に弥生を慰めたもの。
15歳、弥生が試合に勝った時に見せたもの。
どれもが、弥生が今いる場所をわからせるだけのものではない、世界を色づけるものだった。
同時に気づく。
最期に見せた笑顔は、全く眩しくなかった。必死につくったような、かなしみをふくんでいる笑顔だ。
そして後悔がある選択を弥生がしてしまったときに彼女が見せた笑顔のうち、一つに違和感を覚える。
――14歳のとき?
(違う)
――16歳のとき?
(もっと前だ)
『だからいつでも待ってるね!』
禁領で見せたもの。
あの笑顔だけは作られた笑顔ではない。周りを照らしてくれる太陽のようなものでもない。あの笑顔は…………
「思い込みは記憶を書き換える、か……」
他の二つの後悔、それに伴う作られた笑顔という記憶のせいでもう一つの後悔とともにあった笑顔も書き換わっていた。
実に下らないなと、弥生は自身を嘲笑する。
力が抜けてベッドに腰を掛ける弥生。ゆっくりと呼吸をして落ち着きを取り戻す。
考えがまとまっていくうちに、弥生はひとつの気持ちにたどり着く。




