第十話 「さようなら」
はるか遠くで太陽が隠れた頃、弥生は秘密の場所へとたどり着く。
全く手入れされていない草原。子供の頃に来たときは足首までほどしかなかった草は、今や膝ほどまで伸びている。
弥生が顔を上げると、彼女は夕日に照らされていた。
彼女の金色の髪は夕日のせいで余計に輝いている。まるで小麦のようではあるが、弥生からは逆光のせいで全く美しいとは思えない。
「桜さん!」
日が落ちる。夜が来た。
彼らを照らすのは日光ではなく、京都の街の灯りとなった。
ゆっくりと桜は振り向く。街の灯りは思いのほか強く、弥生は彼女の顔がよく見えない。
ただ彼女が笑っていないのは確かだった。悲しい顔をしていたかもしれない。
そう思えてたまらない。
弥生が同声をかければよいか考えていると、桜のほうから口を開いた。
「私ね、結婚することになったんだ……」
弥生は驚くことはしない。琉判の言ったことが事実なのだと受け入れるのみ。
桜も弥生が自分の結婚を事前に知っていたことを察する。もちろんそのことを聞こうとはしないが。
「相手は安倍の分家の人。彼も陰陽術の才能がないんだってさ。だから私と結婚させてこことは違う場所へ一緒にお払い箱ってわけ」
桜は笑っていた。いつもと同じように。彼女にとって望んだ結婚であるはずがないというのに。そうでなければ彼女は家を飛び出すはずがない。
それでも笑う彼女を笑顔を見て弥生はようやくわかった。彼女がときおり見せる、太陽のようなものとは違う笑顔の真の意味を。
それは相手を心配させないための笑顔だ。
桜はこれまでたくさんのひどい目に合ってきたはず。耐えるためにはおのずと笑顔を浮かべるようになったのだ。自分は大丈夫だと表現するために。
そう思うと弥生の目の前にいる少女が弱弱しく見えた。助けを求めているようにも。
「一ヶ月前、親にこのことを言ったんだ。私も陰陽術が使えるって。そしたら両親ひどく動揺してね」
桜は手のひらを寂しそうに眺める。すると仄かにだが発光した。どうやら自分の意志で陰陽道を使えるようだ。
「私は陰陽道は使えないけど見た目はいいからさ。たまーに男の人に触られるんだ。セクハラってやつ。姉が影響力を持つ人だから一線は超えられなかったけど。一ヶ月前、いつも通り私の身体をさわる男がいた。あいつこう言ったんだ。『ぼくが陰陽術を教えてあげる』って。そう聞こえた瞬間怖くなって私は男の腕をつかんだ。どうなったと思う?」
彼女の質問を弥生は考えてもこたえない。少しだけ間をあけたあと、彼女は強く手を握る。
「溶かしちゃったんだ。男の右腕を」
彼女がやったことを驚きつつも納得もした。一年前のテロリストは至近距離でも体が熱いと言っていた。掴まれればどうなるかはなんとなくわかる。
「それからみんな私を怖がる。大人も子供も。ついには私を安倍家から追い出すことになった」
ひとしきり伝えたあと、桜は京都の町を眺める。
(俺のせいなのか……? 俺が桜さんに陰陽道がつかえると伝えた方がいいって言ったから?)
能力が覚醒したとき、桜は何やら悩んでいる様子だった。もしかしたらそれは伝えるかどうかで、伝えるという選択肢を選んだのが自分の後押ししたのだと思うと 胸が苦しくなっていく。
桜の背中を見つめながら弥生はひとつの後悔に苦しんでいた。もし伝えなかったら彼女は今望まない結婚なんてするはずがない。善意だと思って伝えた一言が彼女を苦しめるなんて思わなかった。
「四年前のこと、覚えてる? 私が初めて君にここを紹介したとき」
「ああ……覚えているさ、ちゃんと」
「私あのときね、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ思ったんだ。君が連れてってほしいなって」
彼女の顔は見えない。けれども彼女の声は静寂が流れるこの場所ですらか細かった。
(あのとき、彼女は真剣に考えてたんだ……それを俺は……)
ただ幼稚だったという要因だけでは弥生は納得できない。ただひたすらに後悔が湧き上がってくる。あのときの自分の言葉が彼女を檻に閉じ込めたのかと思うと体の中が疼く。
「けどもういいんだ。君からはたくさんの幸せをくれた。どこにも居場所なんてない、ずっと一人だった、友達を作ってもすぐに彼らは消えちゃう、一度でも私に優しくしようとした人も次の日には私を無視する。誰も私を見ようとしてくれない。誰も……」
彼女の「誰も」という単語には自分も入っているのだろうと弥生は考える。
なぜなら彼の頭には彼女から投げかけられたひとつの質問が浮かんでいたからだ。
『弥生君……君は私のことが好きかい?』
二年前の質問はただ彼女が自分への行為を確かめたのではない。
あれは彼女にとって救ってほしかったのだと、弥生は思った。弥生だけは自分を見ていてほしいと、それがあの問いの真の意味だ。
(あのとき俺が答えていれば……桜は……)
現状は変わらないが彼女の精神は少しばかり楽になったかもしれない。弥生は自分では彼女の味方と思っていた。けれど彼女にしてみればほかの人間とさほど変わらないのかもしれない。
「最後……最後に言わせて…………」
いやだ。
そう弥生は言いたかった。
けれど自分が無力で、情けなくて、さらに三つの後悔で言葉にできなかった。
「さようなら。ありがとう。今まで私に生きる意味を与えてくれて」
京都のはずれにあるとある禁領の丘の上。
古く奥ゆかしい京都の街並みが見渡せる二人だけの場所で、少女は青年に言い放った。
青年は少女の顔がよく見えなかった。
いや、見えていたはずだ。
太陽のように明るい、心の奥底からくる笑顔。
「さようなら」
青年にとってはその一言がショックで、けれどこれは自分にある三つの「後悔」により引き起こされた結果なのだと受け入れるしかなかった。
呆然と佇む弥生の横を通り過ぎ、彼女は森の奥へと姿を消した。
何分、いや何時間たっただろう。うしろから桜とは違う声が弥生へと話しかけた。
「弥生様。ここに桜様がおられたはずですが……」
弥生が振り返ると琉判が立っていた。
彼の顔を見たる琉判はよほど彼がひどい顔をしていたのだろう。声に出さないが驚いている様子。
「…………桜は……彼女はもう帰ってしまいました」
何をしゃべるか考え、肺から息を吐いて、それに言葉を乗せる。単純な動作さえも意識しなければできなかった。
「そうですか……ふむ。一応連絡できるようにしませんか?」
生気のない目をした弥生に対しスマホの画面を向ける琉判。どこまでも彼は冷静だった。まるで物語の説明役のように。
***
虚ろな目をしながら弥生は家へと帰還する。
日付が変わったころに弥生は実家の門へとたどり着いた。
誰も待っていないと思いながら弥生は京都で安倍家の本家で見た門に勝るとも劣らない大きな門をこじ開ける。
しかし一人の少女が美しい着物をまとって待っていた。銀髪が夜の街灯に照らされて、まるで刀が煌くよう。
「おかえりなさいませ。弥生様」
彼女との、沙耶香との新しい生活が始まった。




