死のない世界の死神
永遠の命なんて、叶えてしまえば日常だ。
人間が思う願望、切望、希望、展望。どれも到達してしまえば、代り映えのない生活の一部になる。
大抵そんなもんだろう。
そもそも、永遠を望む行為は生物に対して適当でない。
いつまでも続く物など存在せず、いつまでも変わらない者だってありはしない。
それなのに。どうして永遠を夢見てしまったのか。ある瞬間に、無性に、焦がれてしまったのか。
続けば、致し方ないことが起こってしまう。
人間がどうにもできないこと。
幸か不幸か人間には知恵があって、どうにもできないことにも大方対応できてしまう。
対応してしまい、適応してしまう。
人間は知恵に加えて知識があって、それは時に善悪の区別を始める。
選ばれたもの、そうではないもの。
救われたもの、そうではないもの。
選ぶこともなく与えられたものたちは、繰り返し問うて、または諦めて。
そんな無味乾燥な配分を受け入れ、いつしか無理矢理に忘れようとしてきた。
忘れることなんてできないのに。
いつまでも続く、という地獄に、忘却は効果をなさない。
はたして、続き続ける我々は〝人間〟と呼べるのだろうか。
ぼんやりとした思考の狭間に、賑やかな嬌声が紛れ込んでくる。
声のするほう、眼下の焚火を見やる。
火を囲む住人たちは楽し気で、集まりはひと時の享楽を謳歌するように続いていた。
「春? どうした」
声に振り返ると、怪訝そうな顔で秋一が近づいてくる。
「参加しないのか?」
十階建てのビルの屋上から、広場で火を囲む仲間たちを再び眺める。
あそこに混ざることなどできない、とは決して言葉にしない。
「今度は誰が選ばれた?」
問いに、秋一は躊躇いながら、
「健也と美紀だ。ほら、中央街に荷運びに行ってた二人」
ああ、と思う。この世に生を受けて、たった十数年しか生きていない二人。
そんな二人が、この世界から消えたいと願った。
この世界の仕組みに取り込まれて、仕組みから除外されたものとして消えていく。
「で、健也はどこだ?」
しきりに周囲の人間から声をかけられている美紀。その集団の中に健也の姿が見当たらない。
「今日も仕事だ」
簡潔に言った後、秋一は語気を弱めて続ける。
「望んだ結果とはいえ、落ち着かないんだろう。……まあ、〝死〟は今の暮らしからは最も遠いものだ」
そう、遠いもの。
誰にも訪れるはずのないものとして、死は理解されている。
この世界は一度、終焉を迎えそうになったことがある。
有史以来何度もピンチはあっただろうが、俺たちが経験した未曾有のパンデミックは、結果的には終息した。
終息に向かう過程が間違っていた、と俺は思う。
事態の収束に大きな影響を与えたのが、ナノアンブロシア、と後に呼ばれる人体機能を再構成する細胞だった。
日本国内で七千万人超、世界を含めた全人類の三分の一を死に導いた殺傷ウイルス。
そのウイルスの除去だけでなく、人間のありとあらゆる病原体を駆逐し、死に至る原因を完全に排除しうる、夢のような細胞が、ある少女の肉体から見つかった。
同時期に、彼女を含め十三名の同細胞保有者が〝幸いにも〟見つかり、そして、未知のウイルスパンデミックは十三名の救世主によって終息を迎える。
と、いうのが幸いな話。
それだけでは終わらないのが世の常で、当然ながら、不幸なお話もある。
ナノアンブロシアの機能として、その細胞を移植された後は恒常的に肉体に馴染み続ける、という発表が当時の政府より行われた。
肉体の死滅を防ぎ続ける細胞。
つまり、肉体を不死にする細胞。
ナノアンブロシアの国民総接種の以前から、医療関係者や一部の富裕層にはこの事実が開示されていたそうで、多くのその他国民には事後報告となったわけだ。
パンデミックは防げた。しかし、その過程で我々は永遠の命を手に入れてしまった。
まるでおとぎ話の一節のような出来事が、今から百年ちょっと前に起こったのだ。
「秋」
「なんだ?」
「少し出かけてくる」
「関所か?」
表情を見て察したのか。やはり長い付き合いの人間は困る。
「気をつけろよ春」
「何が?」
「最近関所あたりで奇妙な噂を聞く」
かつて関東地区と呼ばれた中央街から大きな河川を隔てた先に俺たちの住む別街はある。
河川にかかる橋の両端には、両所に立ち入るための関所があり、中央街で溢れた人間はここ別街に行き着く。
中央街やその他日本の各都市にはそれぞれ別街が存在し、そこで行われる仕事も共通している。
簡単に言えば、中央街の人間がやらない仕事。
「奇妙な噂?」
姿勢を正したまま煙草に火をつけた秋一が、煙を吐き出しながら、
「人がいなくなるそうだ」
とひどく簡潔に告げた。
「……ああ、その話か」
別街の治安は悪い。喧嘩やいさかいは常に起こっている。
ただ、最近噂されている話は、少し種類が違う。
川面に人が引きずり込まれ戻ってこなかった。
大型の車に人が攫われる瞬間を目撃した。
目の前で話していた相手が消えた、なんていう信憑性に欠ける話もあった。
中央街の人間が、娯楽の道具として別街の人間を攫っていくのだと声高に語る者もいる。
噂は様々で、どこの誰がいなくなったのか、そしてどこに連れていかれたのかも定かでない。
別街では皆、他者のことを気にしていられない。
気をつける、と秋一に軽く告げ、俺は関所へ向かう。
関所近くは良くも悪くも賑わっている。
この世界の陰謀を暴くと喚く老人に何度も声をかけられたり、かつて中央街で豪勢な暮らしをしていたという汚れた服装の女性にも絡まれる。
ここでは、誰もが自らの立ち位置を確認するかのように、コミュニケーションに躍起だ。
雑音の入り混じる中で、聞きなれた声がした。
「あれ? 春さん?」
関所から出てきた車の中には、健也がいた。
「どうしたんですか、こんなところに来て」
「お前こそ。こんな日にまで仕事か?」
いやあ、と健也は恥ずかしそうに頭をかいた。
「だって、俺みたいなただの荷物運びが選ばれたわけですから。現実感ないっていうか……」
選定の儀、なるものが始まったのはパンデミック終息から八十年後。
その詳細や方法は公に明かされていないが、要するに「死を望むものに死を与える」儀式だと、人々は理解している。
儀式への参加希望者から完全ランダムで年二名の死者を選ぶ。
そもそも、本当に選ばれた人間が死んだのかも定かでなく、ナノアンブロシアの効能上、簡単に死が訪れるとは考えづらい、と市民は認識している。
長く続き続ける暮らしの中で人が無意識に〝死〟を望んだ結果生まれた儀式。
それは、別街での苦難に苛まれる青年たちの中にも神話のように扱われ、そして、希望とされてきた。
「死ぬ、とかよくわかんないっすけど、今の暮らしよりはよくなるのかな、って。みんなも喜んでくれてるし……て、そんなこと言いながら、落ち着かなくてここにいるんですけど」
変に饒舌な健也は、先に帰ってますよ、と言い、車を走らせる。
車の後部座席には、おそらくこの世に生を受けて間もない女の子が二人乗っていた。
また、中央街で暮らせなかった人間が、別街落ちをした。
暗澹たる気分になりながら、周囲を目をやる。
人が死ななくなって百年。
価値観が変化するには十分な時間が経った。
生命維持保全を管理する中央街の組織LM機関による体内監視、徹底した生命倫理教育、そして人類間での必要な区別。
パンデミック以前の倫理観はなりを潜め、今となっては過去の倫理観を語るものは少ない。
俺や秋一のように、パンデミック以前の倫理観を抱え続ける者もごく少数だろうと思う。
――きっと世界は大きく変わる。この世界でまともでいてね。
そう俺に告げた彼女はいま、どうしているだろう。
「三島春さんですね?」
背後から澄んだ声が響く。
「そのままでお聞きください」
声の主は恐らく女性。体躯も大柄ではないだろう。
ただ。俺の背中にべたりと張り付くような冷たい感触が、じわりと恐怖感を伝えてくる。
「……中央街から来たのか? もしかして、LMの……おとなしくしてるんだからさ。勘弁してくれよ」
返答はない。
ごり、と俺の背中に鋭利な鉄の塊の感触が広がる。
「こんなところで殺生はまずいんじゃないか? この世界には死がない」
「何をおっしゃっているのかわかりませんが、人の数は問題ではありません。私は、あなた以外には認識されていないでしょうから」
何を言っているのかわからないのはこちらのほうだ。
しかし、周辺の人間は狼狽える俺の様子など意にも関せず談笑を続けている。
「初仕事、初仕事……」
女はぶつぶつと何かつぶやいている。
奇妙な感覚だった。
死を恐れる感覚などとうに失ったと思っていたのに。
いま感じているものは、かつて俺が人間らしい営みをしていたころに体感したもの。
命の危機。
血の気が引くような悪寒が全身を駆け巡る。
瞬間、自らの足が前に進む。本能的に、危機を感じた身体が前進を始める。
その最中、背後にいた女に振り返る。
「申し訳ありません。では」
黒いローブを着た華奢な女性。女が俺に向け、大鎌を構えていた。
さようなら、と短く告げて、女は二メートルはある大鎌を振り下ろした。
感じたことのない衝撃が身体を伝い、そして、俺の眼前は真っ赤に染まった。それが、自分の身体から発露した血液であると理解するまでほんの少し時間を要した。
大鎌が再び振り下ろされる。
身体の感覚はなくなり、意識が遠のく。バラバラ、ぼとぼと、と身体が壊れていく。
そうか、これが〝死〟。
もし健也に伝えることができたなら、と思う。
お前が望んだものは、だいぶ痛く怖い。まあ、もう伝えることもできないだろう。
眠気が襲う。もう、瞼を開けているのもつらい。
ただ、どうしてだろう。
もう恐怖を感じない。
続き続ける我々は人間なのか? 答えは簡単だ。
そんなもの、人間ではない。おぞましい〝何か〟である。
俺はそう認識している。この世界はおぞましい。
末期のときを感じる俺を見下ろして、大鎌を抱えた女が不安げに呟く。
「……あっれ? ちょい待って……もしかして間違えた……かも?」
最後に聞いた言葉は、えらく素っ頓狂で、拍子抜けな一言だった。