私の夫は疑い深い〜安心してください。私が愛しているのは、え? 浮気? いや、していませんが〜
ある日の昼下がり。
聖グリシア王国騎士団副騎士団長であり、私の夫でもあるアイシュバルツ・バーゲディストは、私の部屋に入って来ると、突然突拍子のない事を言い出した。
「……はい?」
「浮気だ、浮気」
「いきなり何ですか? 私は浮気などした覚えは……」
「とぼけるな。ボクは知っているんだぞ。君が浮気をしている事を」
「だから、していませんってば」
……いや、本当に何の前触れもなく、突然何を言い出すのだろうか、この夫は。
「証拠ならあるぞ。ボクはこの目で見たんだ。君が浮気する決定的な瞬間を」
「だからしてませんって」
「ボクというものがありながら、他の男の虜になるなんて、君は本当に酷い人だよ」
「いや、私は別に他の男性と関りを持った覚えもありませんし……」
……本当にこの夫は、何を言い出すのだろうか?
私が浮気をしている?
一体何を根拠にそんな事を言って……。
「ボクは見た。確かにこの目で見たんだ。君が浮気する決定的な瞬間を」
「いえ、ですからそれは……」
「惚けても無駄だよ。ボクは見たんだ。君が浮気する決定的な瞬間を」
「だからその浮気というのは……」
……いや、本当にこの夫は、何を言い出すのだろうか?
私が浮気をする決定的な瞬間?
そんなの一体いつの事なのでしょうか。
「あの、アイシュバルツ様。その決定的な瞬間というのはいつの事なのでしょうか? 私は全く身に覚えが……」
「今日の午前中、君はあの男を見ていただろ?」
「あの男……?」
あの男について思い出そうとする。
だが、アイシュバルツ様が言っているあの男が一体誰の事を言っているのか、全く心当たりが無かった。
「あの、すみません。そのあの男というのは……」
「おや、忘れたのかい。あんなに熱い視線を送っていたというのに」
「熱い視線……? 一体、私は誰に熱い視線を送っていたのでしょうか」
「惚けても無駄だよ。ボクは見ていたんだ。君が熱い視線を送る先には、あの男がいた」
……いや、本当にこの夫は、何を言い出すのだろうか?
私が熱い視線を送る先?
そんなの一体誰に送っていたのでしょうか。
考える。
考える。
けれど、幾ら考えても、一向に心当たりが浮かんでこない。
アイシュバルツ様が言っているあの男が一体誰の事を言っているのか、私には全然分からなかった。
「あの……失礼ながら、私が一体誰に熱い視線を向けていたというのですか?」
「何を言っているんだい。そんなの一人しかいないじゃないか」
「ですから、その男は誰なのですか?」
「だからあの男だよ。君が熱い視線を向けていたのは」
そう言って、アイシュバルツ様は窓の外──庭を指差す。
そして、庭で剪定作業をしている小太りの男性を指差しながら、こう仰った。
「今日の午前中、あの男を三秒程度見つめていただろ!」
「ちゃんと仕事やってんのか見てただけですわ」
私は彼に向かって、ぶっきらぼうに言い放つ。
私の言葉に納得がいかなかったんでしょう。
彼は子どもみたいに頬を膨らませると、地団駄を踏み始めた。
「三秒も見つめていたんだぞ! これは浮気と言っても過言じゃないのでは!?」
「過言ですよ」
「いーや、過言じゃないね! 婚約者であるボク以外の男を三秒も見つめたんだ! これは浮気と言っても過言じゃない! 過言じゃないんだぁ!」
そう言って、アイシュバルツ様は子どもみたいに喚き始める。
それを見て、私は思った。
『またアイシュバルツ様の悪い癖が始まった』、と。
『私の夫は疑い深い〜安心してください。私が愛しているのは、え? 浮気? いや、していませんが〜』
◇
アイシュバルツ・バーゲンディスト。
聖グリシア王国騎士団に所属している副騎士団長。
次期騎士団長との呼び声も高く、その実力は王国騎士団の中でも五本の指に入る程。
そして、私──エリシア・バーゲンディストの婚約者でもある。
「庭師の男を三秒も見つめたんだ。これは浮気と言っても過言じゃない!」
アイシュバルツ様は、私の婚約者。
そんな彼は今、私に向かってこう仰った。
庭師の男を見つめた、と……。
確かに私は今日の午前中に、庭で剪定作業している庭師の男を三秒間見つめたかもしれない。
けれど、それは別に浮気でも何でもなくて……
ただ単に仕事ぶりを観察させてもらっただけだ。
その事についてちゃんと説明したのだけれど、どうやら納得がいかないご様子で……。
「いや、アイシュバルツ様。私、あの庭師の事なんて何とも思っていませんよ。大体、あの庭師、小太りのおじさんですし。私、小太りの男性は好みじゃ……」
「なら、なんで三秒も見つめていたんだい?」
「仕事ちゃんとしてんのかなと思って、見てただけです」
「えー、嘘だー。絶対嘘ー」
「何でそう思うんですか?」
「だって、ボク以外の男を三秒も見つめるなんて、絶対浮気じゃないか。そんなの許せないよ」
唇を尖らせながら、アイシュバルツ様は言う。
不満そうな顔で。
子どもがしていたら、可愛いという感想が出ていただろう。
けれど、今年三十歳になる身長一九〇センチの大男が、そんな表情を作っても可愛いというよりも怖いという感想の方が正直勝ってしまう。
「ボク以外の男を三秒も見つめていたんだ。これは浮気と言っても過言じゃない! 過言じゃ……」
「あのー、アイシュバルツ様」
「何だい?」
「三秒見つめただけで浮気って、流石に判定が厳し過ぎます。というか、そもそも浮気って何ですか?」
「いーや、三秒は浮気だ」
「なら、三秒以下なら浮気にはならないって事ですか?」
「いや、一秒でもアウトだ。というか、ボク以外の男を見つめたら、もう浮気とみなす」
「日常生活送れなくなるじゃないですか」
めちゃくちゃな事を仰るアイシュバルツ様。
私は溜息を吐き出すと、額に右手を添える。
そして、彼を安心させるため、愛の言葉を呟いた。
「安心してください、アイシュバルツ様。私が愛しているのは、アナタだけです」
「え、そ、そう? え、えへへへ……」
私の愛の言葉が胸の奥に刺さったのでしょう。
アイシュバルツ様は精悍な顔をだらしなく歪めると、心の底から喜んでいるかのように笑みを溢す。
鼻の穴を膨らませ、頬の筋肉がないんじゃないかと思うくらい顔を蕩けさせ、身体をくねらせるアイシュバルツ様の姿は、正直百年の恋も冷めてしまうくらいカッコ悪い姿だった。
職務中のキリッとした彼は一体どこに行ったのやら。
「だから、他の男にうつつを抜かしたりしません。私はアナタの事を心から愛し……」
「で、具体的にどこが好きなの?」
「聞けよ」
羞恥心を押し殺し、愛の言葉を囁いてるにも関わらず、アイシュバルツ様は私の言葉を遮り、疑問の言葉を繰り出した。
ついアイシュバルツ様に殺意を抱いてしまう。
『今度イラッとしたら、アイシュバルツ様の股間を蹴り上げようかしら』と本気で思ってしまう。
そんな私のイラつきに気づいていないのだろう。
アイシュバルツ様は『でゅふふ』みたいな笑い声を上げると、熱の籠った視線で私の瞳を見つめ続けた。
「さあ、ボクの何処が好きなんだい? 教えておくれ!」
餌を前にした犬のように、目をキラキラさせながら、アイシュバルツ様は質問の答えを催促する。
私は再び溜息を吐き出すと、アイシュバルツ様の疑問に答えてやった。
「筋肉と体臭」
「中身は!?」
「正直好きじゃないです」
「うわあああああ!」
中身が好きじゃない。
その発言を真に受けたアイシュバルツ様は、両手両膝を床に着けると、両目から涙を噴き出し始める。
ガチショックを受けるアイシュバルツ様を見ながら、私は『そういうところだぞ』と心の中で呟く。
「何で中身は好きじゃないんだよおおおお! 普通、そこは外面よりも内面の方が好きって言う場面じゃないの!?」
アイシュバルツ様は嘆き叫ぶ。
魂の絶叫を……。
そんな情けない彼の姿を見ながら、私は目線を床の上で四つん這いになっている彼の方に移動させる。
そして、アイシュバルツ様の顔を見ながら、再び愛の言葉を囁いた。
「安心してください。アイシュバルツ様の中身は嫌いじゃないですよ。ただ好きでもないだけです」
「そこは好きって言ってよ! というか、何でボクの中身が好きになれないんだよ!」
「見た目に反して子どもっぽいところ。すぐ泣き喚くところ。束縛が激しいところ。正直、好きじゃないです」
「うわああ! もうやめてえ!」
私の言葉が辛辣すぎたのだろう。
アイシュバルツ様は涙を流しながら、床の上に蹲ってしまう。
そして、『もう立ち直れない』と呟き始める。
どうやら本気で傷心してしまったようだ。
そんなアイシュバルツ様の姿を見て、私は慌ててフォローを入れる。
「でも、私はアイシュバルツ様の事好きですよ」
「……本当に?」
「ええ、本当です。アイシュバルツ様の逞しい筋肉、そして、香ばしい体臭がアナタの内面のダメな部分をカバーしてくれています。だから、私はアイシュバルツ様の事を好きでいられるのです」
「今、内面ダメって言ったよね? 筋肉と体臭なかったら、好きじゃいられない的な発言したよね?」
「あ、筋肉が萎んだり、加齢臭で体臭がダメになったりした場合、容赦なく婚約を破棄させて頂きますので、そのつもりで」
「結婚式の時、永遠の愛を誓い合ったよね!? そんな簡単に破棄するの!?」
「なら、筋肉萎まないようにキープしてください。あと、加齢臭ケアも怠らないように。自己研鑽怠ったら速攻で婚約破棄を言い渡し、アナタに『ざまあ』させるので」
「どっちかと言うと、婚約破棄を言い渡す君が『ざまあ』させられる側じゃない!?」
「今更、内面を変えろなんて事は言いません。でも、せめて外面だけは保ってください。そうしないとヤンデレ気質な上、駄々っ子染みたアナタを愛せなくなってしまいます」
「うわああああああ!!」
再び絶叫し、泣き始めるアイシュバルツ様。
芋虫のように蹲り、床の上で泣き続ける。
そんな彼を見て、私は思い出した。
彼と初めて出会った時の事を。
◇
アイシュバルツ様と初めて出会ったのは、今から十五年以上前。
まだ私が王立学園に入学する前──まだ十歳にもなってない頃。
王都に旅行に出かけた時、私は迷子になってしまった。
まだ幼かった事もあり、一人寂しく泣いていた私。
そんな私に声をかけたのが、当時まだ騎士団に所属したばかりの──当時十五歳になったばかりのアイシュバルツ様だった。
「どうしたの、君? 何で泣いているの?」
「……」
「いや、ボクの顔を見るや否や不審者を見るような目するのやめて。ボク、不審者じゃないから」
「……不審者は自分の事を不審者じゃないと言う」
「本当なんだってば! ボクは不審者じゃない!」
「……」
「だから、その目やめて。本当に不審者じゃないから」
当時の私はアイシュバルツ様の事を不審者だと疑っていた。
だって、私の目の前にいた彼は首から下を甲冑で隠し、両手には盾と槍を装備していたのだ。
その状態で『不審者じゃない』と言われても、説得力の欠片もない。
そんな私の疑いの目に屈する事なく、彼は私に声をかけてきた。
「君、迷子?」
「……」
「どうしてこんな路地裏にいるの?」
「……」
「もしかして、親と逸れちゃった?」
「……」
「……おーい、ボクの声聞こえてるー?」
私は彼の質問に答えなかった。
見知らぬ男の人……それも頭以外全身甲冑の男から話しかけられるなんて、幼い私からすれば恐怖でしかなかった。
「うーん、困ったなぁ。こういう時、どうすればいいんだろう」
そんな私の心境なんて知らんと言わんばかりに、彼は頭を軽く掻く。
そして、私に対してニッコリと微笑みながら、こんな提案を持ちかけた。
「あ、自己紹介まだだったね。ボクの名前はアイシュバルツ。聖グリシア王国騎士団に所属している騎士さ」
「……」
「君は? 名前、教えてよ」
「……不審者に名前教えちゃダメってお父さんが言ってた」
「あ、やっぱ、ボク、不審者だと思われてる!? 違うんだよ。本当に不審者じゃないんだよ!」
必死に弁明しようとするアイシュバルツ様。
そんな彼の姿を見て、私はジト目で彼を睨みつける。そんな私の視線に負けず、アイシュバルツ様は自己紹介を再開させた。
「まあ、いいや。ボクは不審者じゃない。それは信じてくれ」
「……本当に?」
「うん、本当だよ。こう見えて、ボクは騎士団に所属しているからね。不審者だったら、鎧なんか着てる訳ないだろ?」
「鎧着ている不審者だっている」
「んー、どうやったら、君に不審者じゃないって信じてもらえるんだろ?」
アイシュバルツ様は後頭部を掻きながら、考え込む。
そんな彼の姿を見て、私は呟いた。
「……お父様とお母様の下に私を連れて行って。そうしたら、不審者じゃないって信じる」
「なるほど。やっぱ君は迷子だったんだね」
「……迷子じゃない。強いて言えば、お父様とお母様が迷子」
「まあ、どっちが迷子なのかは置いといて。とりあえず、君を御両親の下に連れて行くよ」
そう言って、アイシュバルツ様は私に手を差し出す。
その手を取っていいものか分からず、私は戸惑しまう。
そんな私にアイシュバルツ様は優しく微笑みかけると、ニッコリと微笑んだ。
「大丈夫、ボクを信じて」
そう言って、彼は私の手を掴む。
そして、私を連れてお父様とお母様のいる場所──騎士団本部に連れて行ってくれた。
「ボクはね、騎士になって沢山の人を守るのが夢なんだ」
私をお父様とお母様の下に連れて行く最中、アイシュバルツ様からこんな話を聞かされた。
「だから、ボクは毎日訓練を頑張ってるのさ」
「ふーん」
「興味なさそうだね」
「だって、分からないんだもん。何で沢山の人を守りたいなんて思うの? その沢山の中にいる人の殆どは赤の他人なんでしょ?」
「確かにそうだね。殆どは赤の他人だ」
「なのに、その人達を守りたいの?」
「ああ、そうだよ」
「何で? 赤の他人を守っても一文もならないでしょ?」
私の疑問にアイシュバルツ様は答えてくれる。
彼は優しい笑顔を保ったまま……
「確かにね。一文にもならない。けど、それでいいんだ」
「どうして」
「ボクが沢山の人を守れば、それだけ世界は平和になる。世界が平和になれば、幸せの数が増える。幸せの数が増えれば、笑顔が増える。笑顔が増えれば、世界は今以上に豊かになる。だから、ボクは沢山の人を守りたい。笑顔を増やし、今以上に世界を豊かにしたいんだ」
「ふーん」
アイシュバルツ様の夢を聞いた私は、再び『ふーん』と呟いた。
そんな私の反応に彼は苦笑いを浮かべる。
「ごめんね。一人で盛り上がっちゃって。初対面の相手にこんな話されても困るよね」
「別に」
「え?」
「その夢、悪くないと思う」
それからアイシュバルツ様は私を騎士団本部に連れて行き、私をお父様とお母様の下まで送り届けてくれた。
私はお父様とお母様に再会すると、泣きながら二人に抱きついた。
「よかった、無事で。本当によかった」
お父様とお母様は私を抱きしめながら、そう呟いていた。
私は二人に対して、何度も謝罪の言葉を口にする。
そして、アイシュバルツ様の方に視線を向けると……
彼は私達を眺めながら、優しく微笑みかけてくれていた。
◇
(まさか、あの時助けてくれた騎士見習いが、私の夫になるとは……)
私はアイシュバルツ様の顔を眺めながら、心の中で呟く。
まさか、あの時の彼が私の夫になるなんて思いもしなかった。
(まあ、それと同じくらい、此処までダメな人とは思いもしなかったけど)
私は苦笑いを浮かべながら、心の中で呟く。
本当、騎士している時とプライベートの時の差が激しすぎるよ、この人。
副騎士団長として、騎士として振る舞う時は本当に立派な人なのに。
なのに、プライベートになったらこの体たらく。
「うわああああ!」
人目を気にせず、泣き喚くアイシュバルツ様。
そんな彼に私は声をかける。
「アイシュバルツ様」
私の呼びかけに対し、アイシュバルツ様は泣き喚くのを止め、私の事をじっと見つめ始める。
涙で濡れた瞳を私に向けて……
そして、私は言った。
「夢、叶うといいですね」
「へ? ボクの夢、君に教えたっけ?」
どうやらアイシュバルツ様は、あの時助けた迷子の子どもの事を覚えていないらしい。
或いは、あの時の子どもが私だと気づいていないのか。
まあ、私としてはどっちでもいい。
アイシュバルツ様が、あの夢を持ち続けているのなら、それでいい。
(まあ、ヤンデレ気質なのはどうにかして欲しいけど)
私はアイシュバルツ様の目を真っ直ぐ見つめる。
すると、何を勘違いしたのか、彼は勢い良く立ち上がると、着ているシャツを脱ぎ始める。
そして、上半身裸のまま、私に抱きつこうとしてきた。
「いや、何しようとしているんですか」
迫り来る彼の顔を両手を使って抑え込み、私は真顔で問いかける。
「え、今エッチする雰囲気だったでしょ」
「そんな空気、微塵も感じませんでしたよ」
「嘘だっ!」
「嘘でも何でもありません。ほら、さっさと服を着る!」
「いやーだー! この流れでエッチするんだー!」
駄々っ子のようにジタバタと暴れるアイシュバルツ様。
そんな彼に私はマウントポジションを取ると、無理矢理シャツを着せるのであった。