第一話 武神、異世界に転生する
「はぁはぁはぁ……」
少女の荒い息遣いが闇夜に溶ける。
それ以外に音は無く、周囲はただ、静まり返っていた。
だが、彼女の胸は痛いほどに波打ち、鼓動が耳の奥で反響する。
「いたぞ! あそこだ!」
鋭い叫びが夜を引き裂き、静寂が砕け散る。
少女は反射的に振り返った。
鎧の鈍い光が闇の中で揺れている。
数名の兵士たちがこちらに向かいかけてくるのが見えた。
槍を握る手には力がこもり、鎧がカシャリと音を立てる。
「まずい!」
少女はすぐさま駆けだした。
思考は放棄し、ただ前へ。
迫る鎧の音にも振り返らずに。
「あっちには門がある! 絶対に外に出すな!」
男の声が響く。
門までは後50メートルもない。
間に合う――そう思った瞬間だった。
暗闇から現れる新たな影。
兵士たちが数人、門の前に回り込んでいた。
「クソ……!」
舌打ちするも、足は止めない。
絶対にここから出る。
覚悟を決め、少女は迷わず突っ込んだ。
道を塞げば足を止めるとでも思っていたのだろう。
思いもしない少女の行動に兵士たちの目が大きく見開かれる。
その瞬間。彼女は大きく身を屈め――
地を這うように、兵士たちの足元へ滑り込んだ。
砂利が肌を削るのも構わず、腕を突き出し地面を掴み、身体を転がす。
「チッ! 待て!」
背後で鎧が軋む音。次の瞬間、兵士の手が少女の背中を捉えかける。
ぞわり、と皮膚が粟立つ。
しかし、指がかかる寸前――少女は思い切り地を蹴り、前へ。
乾いた石畳を蹴る音が響く。
閉ざされた門を横目に、少女は脇にそびえる見張り台へと駆け上がった。
狭い階段を駆けるたび、全身を叩く鼓動が痛いほどに早まる。
背後では兵士たちが迫っていた。
「逃がすな!」
「包囲しろ!」
怒号と足音が、暗闇の中で少女を追い詰める。
もう振り返る余裕すらなかった。
そして――
ついに見張り台の頂上へとたどり着く。
開けた視界の先には、彼方まで続く闇夜の森。
城壁のすぐ下には、大河が森と王都を隔てるように流れている。
どこまでも深く、どこまでも冷たい暗黒の水。
彼女は逃げ道を考え続けていた。
そして、唯一の生存の可能性がある選択肢は――
だが、いざ目の当たりにすると、その選択肢がいかに無謀かを思い知らされる。
見張り台から大河までは、かなりの高さがある。
死ぬかもしれない。
だが。
必ず生き延びなくてはいけない。
ただ一つの目的のために。
「いたぞ! 頂上だ!」
兵士の声が響く。
瞬間、少女の頭は一気に冷えた。
迷い怖気づく時間は終わりだ。
唇を強く噛み、意を決する。
「……っ!」
少女は踵を返し、わずかに助走をつけ――
夜闇の大河へと身を投げた。
「な!? クソッ! 外だ! 見に行け! 早く!」
見張り台から身を乗り出した兵士たちが、慌てて下を覗き込む。
だが、そこにはただ、闇に溶け込む大河の流れがあるだけだった。
激しく流れる水の音が、すべてをかき消している。
着水の音すらも――
――ごぼっ……!
どれくらい流されたか、時間間隔も無く、ただ冷たい水が口と鼻を満たす。
それでも、もがきながら、少女は必死に水面へと手を伸ばした。
川の流れは想像以上に速く、暗闇の中で自分が向いている方向さえ分からない。
身体が沈む。息が苦しい。水の冷たさが、容赦なく体力を奪い、意識が遠のく。
だが、ここで沈むわけにはいかない。
死ぬわけには――
必死に腕を伸ばした、その時だった。
――ガシッ!
突然、力強い手が腕を掴んだ。
「っ……!」
反射的に振り払おうとするが、強い力で引き上げられる。
水から引きずり出され、少女は川岸に投げ出された。
咳き込みながら顔を上げると、闇夜の中、うっすらと人影が浮かび上がる。
漆黒の衣をまとい、濡れた体をものともせず立つ若い男。
年齢は20代前半。といったところか。
長身で、鍛え抜かれた体躯。後ろに一つで編み込まれた長い黒髪。
だが、それ以上に異様だったのは、その静けさ。
彼の周囲だけ、まるで時間が違うかのように張り詰めていた。
「……ようやく見つけたと思ったら、小娘か……まぁこの際誰でもいいか――」
低く響く声。
鍛え抜かれた鋼のような声音に、少女は本能的な警戒を抱く。
「――小娘。ここはどこだ?」
「……え?」
少女が戸惑う中、男は腕を組み、じっと彼女を見つめた。
探るような眼光。
単刀直入な問い。
だが、返事をする間もなく――
男がふと、何かに気づいたように目を細める。
「……追われているのか?」
その言葉に、少女はハッとする。
「見つけたぞ! あそこだ!」
怒声が夜闇を裂いた。
遠くに、松明の炎がちらつく。
兵士たちが大河沿いに進んでくるのが見えた。
男はゆっくりと兵士たちの方へ振り向く。
その仕草には焦りも動揺もない。
ただ、獲物を見定めるような静かな殺気が滲んでいた。
その姿を見て、少女は息を呑んだ。
「見つけたぞ、小娘! 今度こそ逃がさん!」
兵頭に立つ兵士は、一際目立つ男だった。
鎧の装飾、鋭い眼光、そして全身から滲み出る気迫。
明らかに、ただの兵士とは違う。
――捕まる。
その考えが少女の身体を強張らせる。
兵士が迷いなく剣を抜き、近づいてくる。
鋼が月光を反射し、ギラリと光る。
それをみた黒衣の男がニヤリと笑みをこぼし、一歩前に出た。
それだけで、空気が変わる。
夜の静寂に溶け込んでいたはずの男が、唐突にそこへ「現れた」ような錯覚。
まるで『強さ』そのものが形を成したかのような威圧感。
「……お前が何者かは知らんが、その娘を渡せ……死にたくなければな」
少女の前に立ちはだかる、強者の気配に臆することなく、兵士は前進を続ける。
「カッカッカッ! 俺に殺気をぶつけておいて、生きて帰れると思うなよ?」
黒衣の男もまた、歩みを止めない。
そして、次の瞬間――
兵士が剣を大きく振りかぶり、黒衣の男めがけて振り下ろした。
だが。
「なんだ。大したことないな」
黒衣の男は半歩引き、ギリギリで回避する。
「なら、これはどうだ?」
ニヤリと笑い、兵士は剣を胸の前に構える。
その刃先は、まっすぐ黒衣の男に向いていた。
「その構え……見覚えがあるな……」
脳裏に浮かぶのは、過去の一戦。
だが、明らかに違うのは剣の特徴。
兵士の手にあるのは肉厚の剣。
そんなもので、記憶の中にあるあの動きができるとは到底思えない。
「死ねぃ!!」
気迫とともに放たれた剣撃。
その軌道は想像通り。
だが――
速い。
明らかに、速すぎる。
「――っ!」
不可能と思われた動き。その限界を超えた剣速。
対応などできるはずもなく――
「おやおや。大口を叩いた割には、こんなものか?」
「カッカッカッ! たかだか数回掠った程度で、もう勝った気か?」
黒衣の男の脳裏を過るのは、かつて戦ったレイピア使い。
その剣撃の速度は過去随一だった。
だが、今目の前にいる兵士の剣は、それを凌駕する。
レイピアの細い刀身の数十倍はあろうかという重量級の剣。
その剣で、あの速度――
意識の不意を突かれ、全てを躱しきることは叶わず。
数カ所に浅い傷が走る。
「ふっ。ならば、もう一度。次は確実に貫いてやろう」
兵士は躊躇なく、再び剣を突き出す。
「馬鹿が。同じ攻撃が、そうそう通じるか」
鋭く走る剣を片手で捌き、黒衣の男は一気に懐へ潜り込む。
「なっ……!?」
超至近距離。
剣を捌き、踏み込みをそのまま利用して転身。
その勢いのまま、背中で打撃を叩き込んだ。
「――がっ……!」
衝撃が兵士の全身を貫き、文字通り吹っ飛ぶ。
「す……すごい……」
武装した兵士を相手に、素手で圧倒する。
その光景に、少女は息を呑んだ。
「カッカッカッ! 大口を叩いた割には、こんなものか?」
先ほど兵士が口にした煽りを、そのまま返す。
にやにやと吹っ飛んだ相手を見下ろしながら。
追撃を仕掛けるわけでもなく、動かない兵士へと悠然と歩み寄る。
「――ダメ! 離れて!」
闇を切り裂くような少女の叫び。
だが――
「口をはさむな。俺は期待しているんだ……こいつが隠している『何か』をな」
忠告などどこ吹く風とばかりに、男は兵士の方へと無防備に歩を進める。
そして。
「ふっ……ふっふっふ……ふははは!!! 馬鹿め! この俺に、これほどの魔力を練る時間を与えるとはなぁ!」
倒れていた兵士が突然跳ね起き、手を黒衣の男に向ける。
「魔力? なんだそれは?」
男が怪訝そうに首を傾げた、次の瞬間。
「――カァァァァァァ!!」
気合に呼応するように、兵士の腕が赤く輝き始める。
「死ねぇぇぇぇ!!」
咆哮とともに、巨大な火球が放たれた。
爆炎が夜闇を裂き、男を飲み込む。
十分な速度をもって放たれたそれは、瞬きの間に着弾し――。
「……はっはっはっ!! 他愛もない! 避ける間もなく丸焦げだぁぁっはっはっはっ――」
土煙と硝煙が立ち上り、黒衣の男の姿は見えない。
燻る焦げた匂いと、兵士の高笑いだけが闇に響いていた。
「――さて。では仕事に戻ろうか」
ピタリと笑いを止め、兵士は少女を睨みつけた。