プロローグ
うっすらと月明かりが辺りを照らす、人気のない山奥の廃ビルにて。
「ふぅ……こんな年寄りに何の用だ?」
老人は肩をすくめ、周りを取り囲む黒服の男たちを見渡した。
「何の用だ、だと? 決まってるだろうが!」
怒声とともに、一人の若い男が一歩前に出る。目には燃え上がるような怒り。
「てめぇに殺された親父の敵討ちだよ!」
男たちの手にはそれぞれ拳銃が握られ、緊迫した空気が場を支配する。引き金を引く寸前のような張り詰めた怒りが漂っていた。
そんな中、老人は大げさに耳を塞ぐような仕草を見せる。
「やかましいなぁ。そんな大声を出さなくても耳はまだしっかり聞こえてるよ……」
――カチャリ。
突如、老人の後頭部に銃口が押しつけられた。
「だが、その前に聞いておきたいことがある」
後ろから冷たい声が響く。
「親父を殺すように依頼したのは誰だ?」
老人は答えない。
数秒の沈黙。
銃口が僅かに揺れ、先端で老人の頭が軽く押される。
「おい。だんまりはよくねぇ。5秒で答えろ」
静かなカウントダウンが始まる。
「5……4……3……2……1――時間切れだ」
引き金が引かれる刹那。
「……ふぅ。俺も舐められたもんだ」
空気が一変した。
――ドサッ。
何の前触れもなく、取り囲んでいた若い男たちが次々と崩れ落ちる。
残ったのは、後頭部に銃を突きつけていた一人だけ。
「……え? な、何が……?」
男の手が震え、握った銃がわずかに揺れる。
仲間たちは沈黙し、目の前にいたはずの老人は、いつの間にか自分の背後に――。
状況を理解しきれないまま、背筋に冷たい汗が伝った。
「さて。質問に答えようか」
老人はふぅと気だるそうに息を吐く。
だが、その声には圧倒的な威圧感がこもっていた。
「お前んとこのボスだがな……あいつは人間の屑だった。それだけだ」
「は? え? それだけで殺したのか?」
男は震えた声で聞き返す。
「それだけ? 子供にシャブぶち込んで金を、命を巻き上げるのが『それだけ』か?」
「そ、そんなの……どの組だって……」
「あぁ、そうだな」
老人はゆっくりと頷く。
「俺に見つかったのが運の尽きだな」
「そ、そんな……」
「さ、もういいだろ」
「え? な、なにが――」
「冥途の土産だよ」
「あ? え?」
「生きて帰れると思うか? まぁ安心しな。あの世はお花畑だとさ――お前の頭みたいにな」
老人が静かに囁く。
次の瞬間――
――ボキッ。
鈍い音とともに、男の体が力なく崩れ落ちた。
訪れた静寂の中。
老人はゆっくりと足元の死体を見下ろし、ふぅと長く息を吐く。
「まったく、最後に面倒なことを……」
そう呟きながら、男のポケットを探る。
「最後に一服……――ん?」
取り出した紙巻きたばこの箱。その奥に、ひんやりとした金属の感触。
小さな十字架のネックレスが忍ばされていた。
「ほう……キリシタンか。こんな奴でも、神を信じてたってわけか」
十字架を指先で揺らしながら、老人は煙草を咥え、火を点ける。
紫煙が夜空に溶ける中、ぼそりと呟いた。
「神か……もし本当にいるのなら、ぜひ手合わせ願いたいもんだ」
月明かりの下、十字架をかざしながら、老人は静かに首を振る。
「……さて、そろそろ潮時か」
ぼんやりと滲む月。
それを見つめる瞳が、ふと細められる。
「……あぁ、気が付けば随分と長生きした」
ゆっくりと息を吐く。
それはまるで、積み重ねた年月ごと吐き出すような、静かな息遣いだった。
握っていた煙草が指の間から滑り落ちる。
地面に触れた途端、赤い火がふっと消えた。
「――今、俺もそっちに行くからな」
誰にともなく、最後の言葉を呟く。
その瞬間、まるで糸が切れたように、老人の身体が傾いだ。
背中が壁にもたれかかる。
月明かりに照らされた横顔は、どこか穏やかだった。
風が吹き、煙草の灰が、静かに闇へと溶けていく。
やがて――老人の呼吸は、完全に止まった。