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第二章 陽光は日陰と共にそこに在る⑤


 病院から戻ってくると、もう陽は落ち切っていた。空の色は夜の色に完全に変わりきる寸前の紺青色だ。夕食の準備をしているのが分かる良い香りがしていて、凪紗は急いで鞄から鍵を取り出して玄関を開けた。

「ただいま戻りましたー」

 靴を脱いでいるとキッチンに繋がる引き戸が開き、エプロン姿の祖母が顔を出した。

「おかえりなさい、凪紗ちゃん。もうすぐお夕飯が出来上がるから着替えてきてね」

 そう言いながら手にお玉が握られているその姿は愛らしく、凪紗は「ふふっ」と笑った。

「着替えたらすぐにお手伝いしますね」

 凪紗は洗面所に寄った後、着替えるために急いで階段を上がる。その背中に「急がなくて大丈夫よー」という声がかかった。

 着替えた後、凪紗は祖母と並んで料理の仕上げと配膳を始めた。縁側の脇では祖父が七輪で魚を焼いているのが見えた。真剣に火加減を見ている横顔に「ただいま。おじいちゃん」と声を掛けると「おかえり、凪紗」と声だけが帰ってきた。白河家の男の人は、好きなものへの集中力が高い家系で、写真家をしている凪紗の父親もそうだ。

「今日もあの人は真剣ねえ。……そういえば英恵ちゃんは相変わらず美人だったかしら」

 祖母はまるで女子高生のように楽しげに聞いてくる。

「はい。もうそれは輝いていました。英恵先生は、ただそこにいるだけで目立ちますよね」

「そうねえ、昔からすごく目立つ子だったわー。そうそう。波高で生徒会長をしていたのよ」

「英恵先生が生徒会長なんてものすごくそれっぽいですね」

(カリスマ生徒会長とかそういう言葉が浮かぶなあ。人望に溢れていそうだし)

「元々目立つ子だったけど、その時は一学年下の湊どころか、皆が英恵ちゃんのことを知っていたし、もう町中のアイドルみたいな存在だったわねえ」

 湊というのは祖父母の息子で、つまり凪紗の父親だ。祖母の発言に、凪紗はよそっている最中の味噌汁を零しそうになった。

「え……!? 英恵先生ってお父さんよりも年上なんですか!?」

「ええ、そうよお。英恵ちゃんの若々しさは、波雲町の七不思議とも言われているわね。……そうそう。凪紗ちゃんは昔、英恵先生に会ったことあるのよ」

「え、そうなんですか。いつですか?」

「やっぱり覚えていないわよね。凪紗ちゃんがまだ小さいときに怪我をして、少しだけ入院したことがあってね、英恵先生がそのときの外来の当番だったのよねえ」

「全然覚えてないです……」

「まあ、凪紗ちゃんもまだ四歳か五歳くらいだったし、念のための入院だったものね」

「うーん。全然記憶にないです。その歳くらいなら記憶にありそうなんですけどね」

「びっくりして記憶から抜け落ちちゃったのかしら」

「そうかもしれないですね」

「ちなみに凪紗ちゃんも海斗くんもあの病院で生まれたのよ」

「それは、流石に覚えてないですね……」

「本当に可愛い赤ちゃんだったのよ。……あら、お魚焼けたみたいね」

 魚の脂が焼ける美味しそうな匂いが漂ってくる。

「私、取りに行ってきますね。――おじいちゃん、お魚焼けましたかー?」

 焼き魚用のお皿を手に取り、そちらに駆け寄った。この平和な時間は英恵先生の言う『好ましい時間』だと感じる。


(この温かい場所にずっと浸かっていたい、なんて我儘だよね)


    ✿


 短い桜の季節が終わることを告げるように、若緑の葉が木々のほとんどを占めていた。昼休みの教室には陽光が差し込んでいた。

 凪紗は、陸上部の用事のために慌てて教室を出て行った小暮さんを見送ると、鞄から本を取り出した。しかし、隣に立つ影に気付いて顔を上げた。

「あ、白河さん、ごめんね。本、読もうとしてたよね」

(……彼は確か斜め後ろの席の)

「いいえ、大丈夫ですよ。柴崎くん、どうかされましたか」

「ありがとう。えっと、白河さんって高校から波雲なんだよね」

「はい。そうですよ」

 凪紗は少しだけ身構えるが、笑顔を崩さない。

「あのさ。白河さんって……部活は、入らないのかな」

「ええ。今のところ、その予定はないですね」

 どこか自信がなさそうに聞いてくる同級生に、凪紗は曖昧に答える。

「……そうなんだ。えっと、俺は写真部なんだけど」

「そうなんですね」

「あのさ! 白河さんって、写真家の白河湊さんの娘だったりする!?」

 予想外の質問に驚くが、一世一代の決意のように尋ねてくる同級生に凪紗は素直に頷いた。

「確かに、私の父は白河湊ですよ」

「やっぱりそうなんだ! この高校出身で写真部だったって聞いたから、もしかしたらそうじゃないかなって! ……って興奮してごめん。俺、湊さんのファンなんだ。それで、もし本当に白河さんが湊さんの娘なら、白河さんも写真撮ったりするのかなって聞きたくて……」

 目の前の彼はどんどん声が小さくなり、肩がどんどん落ちていく。

「……ごめんなさい。私は撮らないですね」

「そうなんだ。ああ、謝らなくていいよ! えっと、興味とかはないのかな……?」

 少しだけ切なそうな瞳で見てくる同級生に、凪紗の良心が少しだけ痛んだ。

「そうですね。ごめんなさい」

「ううん。こっちこそごめんね……。ほんと、邪魔してごめんね」

「いいえ。気にしないでください」

 とぼとぼと帰っていく背中から凪紗はすぐに目を逸らした。

「あんなにしょんぼりして柴崎くんどうしたの? 振ったの?」

 いつの間にか戻ってきていた小暮さんが椅子を引きながら言った。

「茉菜ちゃんおかえりなさい。少しお話していただけだよ。……先輩は何の用だったの?」

「今日の陸上部の練習のことー。今日はスポーツセンターに行くんだー」

「へえー。そういう場所で練習もするんだね」

 凪紗はどこにも入る予定はなかったため、勧誘イベントの時はぼんやりと過ごしてしまったが、部活動はすっかり本格始動しているらしい。

「……それよりも凪紗ちゃん。柴崎くんは結局何の用だったの?」

 小暮さんは椅子に横座りしながら、こちらに身を乗り出して質問をしてくる。

「ううん別に。私の父親のことを知っているらしくて、それが確認したかったみたいです」

「そうだねー……うん、たぶんそういうことだけじゃないと思うけど、そうだねー……」

 小暮さんは遠くを見るような悲しい目をして柴崎くんの方を見つめていた。

「茉菜ちゃん。そろそろ教室移動しないとじゃない?」

 クラスメイトたちは、次の授業が行われる化学実験室に向け、ちらほらと移動を始めている。小暮さんは悲しそうに教科書や筆記用具を取り出し始めた。

「ミーティングのせいで、全然ゆっくり出来なかったよー」


 二棟ある校舎に挟まれた中庭を囲う外廊下を小暮さんと二人で歩いていると、聞き覚えのある声が聴こえてきた。凪紗はその声に誘われるようにそっとそちらに視線を動かす。

「それにしても歌雲の選択授業が美術って意外だよな!」

「実は俺もそう思ってたんだよねー」

「何でだ」

 中庭を挟んで反対側の廊下を歩く男子四人組の中に、歌雲先輩の姿があった。

「歌雲には芸術に興味を示す心とか、芸術を愛でる心なんてものがあるとは思えないからだよ」

「かといって、音楽選択で『歌ってる』っていうのも、違和感があるんだよねー」

「確かにな!」

「だから何でだよ」

 凪紗は自分の見たものに目を疑い、足を止めた。なぜなら、まだ短い時間しか話したことがないけれど、全く笑顔を見せたことがない歌雲先輩が、年相応の顔で笑っていたから。

(歌雲先輩は、あんな風に笑うんだ)

 凪紗が彼と出会ってから日は浅いのだから、知らない顔があるのは当たり前なのに、なぜか胃がムカムカとしてきた。その理由は――。

(私には笑いもしないどころか、射殺しそうな視線で見て来るのに! 頭鷲掴みするのに!)

「凪紗ちゃん、どうかしたの? なんか怒ってる?」

 こちらの顔を覗き込む小暮さんに凪紗ははっとするが、すぐに満面の笑みを作った。

「ううん。なんでもない」

 しかし今度は小暮さんが凪紗の視線の先にいた人物に目を向ける。

「ん? あれって歌雲先輩だよね。凪紗ちゃん、同じ図書委員だよね」

「茉菜ちゃん、歌雲先輩のこと知ってるの?」

「うん。小学校は学区違いだけど、中学は同じだったよ。でもねー、違う中学の子も知ってると思うよ。有名人だし、歌雲先輩」

「有名人?」

「歌雲先輩は目立つからねー。ほら、イケメンで頭も良いから。小学校とか中学の時は図書館に毎日入り浸ってて、それを見に行ってる子とかもいたみたい」

 小暮さんはからっとした声で笑ったあと、苦笑いしながら逸話を披露する。

「な、なるほどー」

 確かに歌雲先輩は目立つ容姿をしている。紛うことなく、美形だ。

(私だって最初は綺麗な顔だと思って見惚れ……そうになったけど、あれは『鑑賞物』としての感想で……)

 凪紗は誰にともなく心の中で言い訳をしていると、小暮さんが何やら興奮し始めた。

「なになに!? 凪紗ちゃんは図書委員で先輩と仲良くしてるの? 仲良しさんなの!?」

「全然仲良くないよ……歌雲先輩って結構意地悪だし」

「……ふーん」

「その含みを持たせた『ふーん』はなに……?」

 どうも小暮さんは、先程から何か大いなる勘違いをしていそうだ。

(私が歌雲先輩を好き、みたいな……うん、ないな。女子の頭頂部を鷲掴みにする男は無いな)

 凪紗は先日のことを思い出し、スンとした顔になる。

「でも歌雲先輩って、女子とは全然話さないからなー。スルースキルが凄いらしいよ」

「先輩は本当に意地悪だからその方が良いよ。普通に失礼なこと言ってくるから」

「でも『意地悪』って言うってことは、凪紗ちゃんとは結構話してるってことだよね」

「それは一緒に仕事してたら、話す必要性が出てくるからね……結構って言う程じゃないけど」

「まあ、まだ一年は始まったばかりだしね! 頑張って!」

「だから何を!?」

 凪紗の質問に答えず、小暮さんはルンルンと廊下を歩き出す。

(でもどうして高校に上がった今では図書館に先輩を見に来る子たちが居ないんだろう。そうしたら、図書館ももう少し繁盛してるはずだよね。図書委員だって奪い合いじゃ……?)

 凪紗は一瞬そんな疑問を浮かべるが、ご機嫌な少女の背中を慌てて追いかけた。



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