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第二章 陽光は日陰と共にそこに在る④


[白河さん。白河凪紗さん。第二診察室にお入りください]

 夕刻の病院の待合室に、女性の声が反響する。立ち上がりながら「はい」と返事をすると、鞄を肩に掛け直し、笹野と書かれた札の掛かった診察室の扉を開く。カラカラと軽快な音を出す扉を開くと、看護師に書類を渡している白衣の女性の背中が目に入った。

「こんばんは、英恵先生」

 凪紗の挨拶に合わせて、その女性が座っている椅子がくるりと回った。

「凪紗ちゃん、こんばんは」

 一目で聡明であることを相手に悟らせる顔立ちの女性がこちらを振り向き、白い歯を見せて笑った。肩に触れる長さの茶色いウェーブヘアが、椅子の回転の余韻で揺れている。大きな瞳が上から下に、次に下から上に動くのを、凪紗は縫い留められるように見つめ返す。

「……あの、どうかしましたか?」

 凪紗が戸惑いながら尋ねると、英恵先生はうんうんと神妙な顔で頷く。そして、満足そうな笑みを浮かべた。

「いやーん。凪紗ちゃん! 波高の制服とっても似合っているわよ! なんてキュートなの!」

「あ、ありがとうございます……」

 凪紗の主治医になった英恵先生は学生時代に英国(イギリス)に留学していたためか、少しテンションが高いときがある。英国というより米国(アメリカ)感はあるけれど。

「やっぱり女子高生っていいわねー」

「えっと、私としては女医さんの方が、レアリティーが高くて、素敵だと思いますけど……」

「自分の良さっていうのは自分では良く見えないものなのよ。たったの三年間という期間限定なところが、『なお良し』なのよ!」

 凪紗は苦笑しながら、やたらと美人な担当医が促すままに、前に置かれた丸椅子に腰掛けた。

「ところでどう、最近の体調は?」

「やっぱりまだ慣れないからだと思うんですけど、ぼんやりして少ししんどい時はありました。だけど薬も飲んでいるので、少しずつ落ち着いてきた感じはあります」

「そう。良かったわ。でも無理はやっぱり禁物よ」

「はい、ありがとうございます」

 英恵先生は凪紗の身体の状態を順番にチェックしていく。そうしながらも凪紗の緊張を解くように会話は続いていく。

「あのね、凪紗ちゃん。自分に優しくするのも治療のひとつなのよ」

「自分に優しく?」

「そうねえ。そうそう。例えばあれね。……手を出してみて」

 首を傾げていた凪紗は、今度はおずおずと手を差し出す。すると英恵先生は「内緒よ」と言って、凪紗の手に何かを握らせた。手を開くと、ピンク色の可愛らしい包みが凪紗の掌の上にちょこんと乗っていた。その独特の甘さだけではない香りで、すぐにそれが何かが分かった。

「チョコレート、ですか」

「そう。チョコレート。凪紗ちゃん、甘いものは大丈夫だったかしら」

「はい。むしろ好きですよ」

「良かった。……あのね、凪紗ちゃん。チョコレートっていうのはね、確かに食べ過ぎると太るし肌荒れもするんだけど、カカオポリフェノールとか身体に良い成分が沢山含まれているのよ。まあ色々と効果はあるけれど、適度に食べると、健康に良いのよ」

「えっと……はい」

 まだ話が呑み込めない凪紗は、英恵先生がチョコレートの包みを綺麗な指で開いていく様子を見つめる。自身の手元にある甘い香りはふわふわと浮いているようだ。

「まあ御託は置いておいておくと、甘いものというのは、人間をどこかほっとさせるのよ」

 英恵先生はチョコレートを摘まんでいない方の人差し指を唇に当て片眼を瞑ると、チョコレートを口に放り込んだ。それはとても様になっていて、凪紗は思わず見惚れてしまった。

「……ほっとさせる、ですか」

 掌の上に乗っているチョコレートを見つめながら、英恵先生の言葉を繰り返す。

「そう。例えば、勉強の合間のお茶の時間でも良いわ。新しい環境で、緊張はなかなか解けないかもしれないけど、とにかくリラックスできるとか、好ましいと思える時間を作ってみて」

「……好ましい時間」

「難しいことは考えなくて大丈夫。それが自分に優しくすることの第一歩よ。さ、凪紗ちゃんもチョコ、食べてみて」

 凪紗はその言葉に従って包みを剝がし、その一粒を口に放り込んだ。転がり込んだ一粒は、舌の上でじわりと溶けて、口の中に広がった。

「……甘くて、美味しいです」

「凪紗ちゃんに今一番必要なのは、甘いものを食べたときみたいに、楽しくて穏やかで優しい時間よ」

 英恵先生は聖女を思わせるような、とてもとても優しい顔で笑った。

「大丈夫よ。前に来た時よりも随分と顔色が良いもの。おじいちゃんとおばあちゃんは優しい?」

「はい。二人ともとても良くしてくれます。ご飯も美味しくて楽しくて……たぶん、それが『好ましいと思える時間』というものなんだと思います」

「うんうん。いい感じね。お薬は前回と同じ量を出すわね」

「はい。ありがとうございます」

 英恵先生は机の上のパソコンに向き直ると、カルテに書き込みをする。そしてもう一度こちらに向き直ると、我が子を見守るような目を凪紗に向けていた。


「ところでうちの息子も波雲高校の生徒なのよ。今三年生なの」

 それは今年一番の衝撃だったかもしれない。

「えっ!? 英恵先生ってそんな大きいお子さんがいるんですか!? 私は今、人類の可能性を見ている気がします……人魚のお肉を食べたと言われても信じてしまいますよ」

「凪紗ちゃんは本当に褒め上手よねー。ちなみにその上に今年二十五歳になる息子もいるわよ」

 得意げな顔をする英恵先生はものすごく可愛かった。それはもう、ものすごく。

「……色々と衝撃がすごいですね。語彙力を失うぐらいにすごいですね。英恵先生最強です」

 目の前の美しい女医さんが、眩しすぎて思わず遠い目をしてしまう。しかし、持ち直した後は、まじまじと見つめてしまった。

(この遺伝子を受け継いだお子さんとか、もはや将来を約束されたようなものだよね)

「高校三年の息子は、父親に似てぶっきらぼうだけど、優しい子よ。ちなみに父親似でクールなイケメンよ!」

「へえ……」

(ぶっきらぼうだけど優しいクールなイケメンってどんなのなんだろう……)

 凪紗は思わず死んだ目をしてしまう。

「あら、凪紗ちゃんはイケメンには興味がないタイプ?」

「そんなことはないですよ。綺麗なものは好きです。ただ、鑑賞物としては良いかもしれませんけど、一緒にいるなら安心できる顔の方が良いかもしれないなあ、と」

(あと、いくら顔が綺麗でも歌雲先輩みたいに口が悪いのはちょっとね)

「『鑑賞物』! 凪紗ちゃんは面白いことを言うのね」

「それに、英恵先生で十分目の保養になっているので、大丈夫です」

「あら、やだ。嬉しいわー」

「いえ、本当のことです。本当の本当に」

 凪紗は真剣な目で英恵先生の両目を見つめる。

「凪紗ちゃんは本当に良い子よね」

「……そんなこと、ないですよ」

「それこそ、本当の本当に良い子よ。でも新しい環境はそれだけで疲れちゃうから、本当に無理しちゃだめよ」

「はい、わかりました」

 凪紗はそう言って笑った。

(でもね、英恵先生。私、もうがっかりされたくないんです)

「凪紗ちゃん、『お大事に』ね」

 念押しをする英恵先生の心配そうな顔を、凪紗は見ないふりをした。

(英恵先生。やっぱり、私は良い子なんかじゃないですよ)

 もう一度引き戸の下をくぐった後、凪紗は誰も居ない待合室をただじっと見つめた。


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