第二章 陽光は日陰と共にそこに在る③
その後、歌雲先輩は気が付くとどこかに行ってしまっていたが、凪紗は藤原さんに図書委員の仕事について説明してもらった。
凪紗は図書委員をしていたことがあったため、仕事については比較的短時間で把握することができた。当番は都合の良い日に来て、返却本の片付けと簡単な掃除をするくらいで良いそうだ。カウンターに居ても、「人が来た時以外は宿題でもしていてね」とのことだった。月に数回程藤原さんが不在にする日があるので、その日は予定さえ合えばカウンターにいて欲しいとのことだった。
ただ、そう説明しながらも藤原さんは苦笑いをする。
「でも数年前に町の図書館ができてからは、元々ここの図書館を使っていた子たちもそっちを使っているみたいなのよね。だから、ここにはそんなに人が来ないのよ」
藤原さんは「ここは古いものねえ」と笑っていた。
凪紗は改めて周りを見渡してみる。新しい本のコーナーもあるが、利用者が少なくて予算が少ないのか、そんなに数が入ってきていないようだ。凪紗は入り口脇に置かれた「古本回収」と書かれた箱が気になり、近付いてそこにしゃがみ込む。
「それは読まなくなった本を寄付してもらっているのよ。結構先生たちが協力してくれるのよね。本好きな人って、家の床に穴が開きそうなほどに本集めちゃうでしょう」
凪紗の横に立って説明してくれる藤原さんを見上げて凪紗は神妙な顔になる。
「……それは身に覚えがありますね」
今は違うけれど、凪紗もお年玉やお小遣いをつぎ込んで買った本で本棚から本が溢れていたことがある。子供のお小遣いなので床が抜けるほどにはならなかったけれど。
「白河さんも良かったら寄付してね。状態が悪い本は修復して文化祭で古本市に出したりするから」
「古本市ですか。素敵ですね!」
「でしょう。それにね、紡君は本の修復が上手なのよ。白河さんは細かい作業は得意?」
「そうですね……。苦手ではないとは思いますよ」
凪紗は料理も裁縫も日常生活に困らない程度にはできるし、決して不器用な人間ではない。
「それならもし気が向いたら手伝ってくれると嬉しいわ」
「なんだか楽しそうなので、喜んで!」
凪紗が笑うと藤原さんは少しだけきょとんとして、目尻に皺を刻んだ優しい笑顔で笑った。
「……凪紗ちゃんはとってもいい子ね」
「そんなこと、無いですよ」
凪紗の言葉は少しだけ尻すぼみになった。
凪紗はまだ配置を覚えきれていない書架の合間をひとつひとつ分類を確認しながら歩きまわっていた。きょろきょろと視線を泳がせていると、視界の右端に「異常」を感じ取った。
(なんだか見てはいけないものが、そこに在る気がする。きっとちゃんと見たらきっと後悔する気がする。絶対に)
そう本能的に思いながらも、凪紗はそれを完全に視界に捉えてしまった。
「えっ――」
思わず上げた声に、凪紗は慌てて両手を口に当てて抑える。図書館の一番奥の場所。そこには本当にただ異様としか思えない光景が広がっていた。凪紗はその光景をしっかりとその網膜に焼き付けるようにして見つめる。
(何あのやばい光景――)
視線の先には、本の『山』があった。凪紗の足はそろりと下がる。うず高く積み上げられた本の山々が。その山の麓――ではなく、机の中央には人影があった。一見細身だが決して細すぎない背中に猫のように気だるげなあの雰囲気。あの背中を凪紗はもう知っている。身体を伸ばして覗き込んだ先でその横顔が見えた瞬間。分かり切っていた答えに、それでも腰を抜かしそうになった。
(歌雲先輩……! 姿を見ないと思ったらあんなに奥の方に居たんだ)
凪紗は更に後ずさりそうになる足を前に動かし、気を持ち直してその机に向かう。よろよろとふらつく足取りで近付くと、歌雲先輩を見下ろしながら話しかけた。
「あのう、歌雲先輩。ここで何をしていらっしゃるのですか」
「……何故、ここに居る」
歌雲先輩はなぜか僅かに瞳孔を細め、こちらを見上げている。睨んでいると言っても良い。質問に質問で返されて尻込みしそうになるが、不要な好奇心が勝ってしまった。
「視界に入って気になったものでして。それで、歌雲先輩はここで何をしているんですか」
「……仕事だ」
歌雲先輩はこちらを見もせずにそう答える。手元にある本をすっと右に避けたのは何かを隠すようだと凪紗は感じた。
「これが……?」
凪紗はその光景を見回す。こんな大量の本に埋もれるのが、本当に図書委員の仕事なのだろうか。百歩譲っても散らかしているようにしか見えない。
「修復作業みたいなものだ」
(みたいなもの?)
凪紗は何故そんな曖昧な表現をするのか分からなかったが、とりあえず曖昧に誤魔化す笑顔を浮かべることで一旦その状況を受け入れた。
「へえ、そうなんですねー。お邪魔しましたー。失礼いたしますー」
凪紗は徐々に距離を取りながら言った後、勢い良くぐるりと回れ右をして、ぎりぎり歩行と呼べるスピードで勢い良くその場を去った。
凪紗はカウンターまで戻ると、座って作業をしている藤原さんの元へ向かう。周りに誰も利用者がいないことを確認すると、内緒話をするように小さな声で助けを求めた。
「あの、藤原さん! 歌雲先輩が、なんか、こう、大量の本に囲まれていて……! 仕事だって言っているんですけど、どう見ても散らかしているようにしか見えなくて……!」
「凪紗ちゃん?」
「何をしているのか聞いたら、修復作業みたいなものだって言ってて。でもそれで何であんなに大量の本に囲まれる必要があるのかも分からないですし……!」
動揺している凪紗に、藤原さんは少し困った顔をする。途中で視線も合わなくなったが、その時の凪紗にはそれに気付く余裕すらなかった。
「あのね、凪紗ちゃん。あのね、後ろにね」
「歌雲先輩――何か気でも触れたんでしょうかっ!?」
凪紗がそう言い切った瞬間、背筋が凍るようなとても寒い空気を感じて凪紗はぶるりと震えあがった。
「……誰の気が触れただって?」
凪紗は体の内側に響くその声に、今度は縫い留められたように硬直する。その直後、凪紗の髪がぐしゃりと歪む音が耳の中に直接響いた。
「ひやあああああっ!」
(こ、これは……頭を掴まれている。絶対絶対掴まれてる! わし掴まれてるっ!)
頭蓋骨を大きな手で掴まれているこの圧力。
「……藤原さぁん」
凪紗は振り向くことができないまま、泣きそうな声を出した。
「紡君……! なんてことするの! 女の子の頭を掴むだなんて!」
「『女の子』……?」
(――怖い、怖い、怖い、怖い。私はそんなに怖い『女の子』ってフレーズ聞いたことが無いですよ、先輩!)
凪紗の足がガタガタと震える。
「紡君、止めなさい! 凪紗ちゃんが怖がっているでしょう」
「………………」
数拍の無言の後、歌雲先輩はその腕を降ろしてその場を去っていった。頭を鷲掴みにされている感覚は消えたが、凪紗の疑問は消えることはなかった。結局先輩はあんなに大量の本に囲まれて一体何をしていたのだろうかという疑問が。
初めての委員会の時間が終わる頃には藤原さんの優しい雰囲気にすっかり打ち解けていた。ただし、歌雲先輩はさておきという話である。
「そういえば、藤原さんは歌雲先輩のことを下の名前で呼ばれているんですね。仲良しじゃないですか」
「そうなの、仲良しなのよ」
凪紗が藤原さんとそんな風に話していると、どこかに行っていた歌雲先輩は凪紗たちの座る入口近くの席に後ろから現れた。
「仲良しではない」
(びっくりした……なんでこの人全然気配がないの)
「あら、冷たいのね」
凪紗は驚くが、藤原さんはなんてことの無いような顔をしている。歌雲先輩は今年三年目の図書委員だと言っていた。つまり、二人はもう二年の付き合いで、それなりに勝手知ったる仲なのだろう。そんな二人の顔を見比べていると藤原さんは少女のような顔で、良いことを思いついたという顔をした。
「そうだわ! 凪紗ちゃんも紡君って呼んでみたら」
「やめろ」
いたずらっ子のような藤原さんに、歌雲先輩は間髪入れずに鋭く答える。
「……怖いので、やめておきますね」
凪紗は、「あはは」と作り笑いをする。ちょうどその時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、凪紗はその場から逃げることにした。
「それではお疲れさまです。お先に失礼しますね」
気を付けてねと手を振る藤原さんに、凪紗はぺこりと頭を下げる。そして音鳴らしながら木造の階段を降りていった。背後に探るような視線を感じたけれど、気付かないふりをした。
(どうしてそんな視線を私に向けるんですか。歌雲先輩――)