終章 夢のあとのエピローグ⑤
「紡先輩。一緒に寄り道をしませんか」
凪紗は海岸線を指差し、返事を聞く前にコンクリートの堤防の階段を駆け上がった。
堤防の上で待つ凪紗の隣に紡先輩はゆっくり進み、二つの影が並んだとき、凪紗は口を開く。
「私、休み中に母に手紙を書いたんです」
「そうか」
あの世界に囚われて、凪紗は気付いたことがある。
(期待に応えられないからといって、私の価値は下がるのだろうか。人生は決められた配役や決められた脚本でなければならないのだろうか)
答えは簡単なことだった。
(期待に応えられなくても、私の価値は絶対に下がったりしない。期待に対する価値なんて、期待をした側の人間のものだ。私の物語は私だけのものだ)
「私、人の期待に応えようとするのはもうやめました」
「そうか」
「そうなんです」
凪紗は鞄からあの『眠り姫』の絵本を取り出す。
「この子は、私がきちんと前を向くための時間稼ぎをしていてくれたんじゃないかって、そう思うんです」
あのときの凪紗には、自分の身に起こったことを受け止めきれなかった。
その受け止めきれなくて零したものをこの絵本が掬い取ってくれていたのだと思う。
全てが元に戻ったわけではないけれど、凪紗はこうしてここに立って、笑っていられる。
「この子のおかげで私は少しだけ立ち止まって振り返ることが出来て、紡先輩のおかげで私は夢から醒めて、時計の針がまた動き出したんです」
再び動き出した凪紗の時間。取り戻した凪紗の想い。
凪紗はあの世界から戻ってきて、自分の思ったことを少しだけ言えるようになった。
我儘で泣き虫な自分を少しだけ許せるようになった。
凪紗は優しくて意地悪な先輩のおかげで、前に進めている。
優しい景色の中で生きていける。
この先、きっと辛いことがあっても、たくさん傷付いても、それでもきっとちゃんと生きていけると、そう思える。
凪紗を助けてくれるという約束を守ってくれた人がいるから。
❀
白河凪紗は絵本を鞄に大事にしまって砂浜に降りていく。
紡はその後ろをゆっくりと歩いた。
「この町の海はきれいですね」
水平線を眺めながら、彼女は焼き付けるように目を細める。
「そうか。毎日見慣れているからな」
同じ景色が見えているのかは分からないが、紡も同じように海を眺める。
「私はこの町に来て、この海の色が好きだなって思いました。あったかい気持ちになるなって」
実家のある街から見える海はどこか冷たい色だったと彼女は言った。
「遠くから海を眺めるのも好きだけど、やっぱり直接触れてみたいなって思っていたんです」
彼女は唐突に砂浜に靴を脱ぎ捨てた。それから裸足になって砂を踏みしめて、海に向かっていく。まだ入るには少し冷たいであろう水面に彼女は足をつけ、「冷たーい」と声を上げた。
制服が濡れるのも構わず、彼女は声を上げながら足を遊ばせているのを紡は離れた距離から眺めていた。
パシャパシャと水を跳ねさせている彼女は、無邪気なあの頃の彼女を思わせた。
紡がゆっくりと海に近付いていくと彼女は水を掬って、それを夕陽に掲げるように振りまきながらこちらを振り返る。
「楽しいですね! 先輩!」
彼女は近付いていった紡に向けて、再び掬い取った海水を振り撒く。
「おい、こっちに水をかけるな!」
紡が嫌そうな顔を浮かべると、彼女はいたずらっ子の笑顔を浮かべた。
「先輩、ノリが悪いですよー」
彼女は腰に手をあてながら、頬を膨らませている。
「……君はそういう人格だったか?」
紡が問うと、彼女は波の音に負けないように大きく口を開いた。
「わたし! 楽しいとか悲しいとかそういう気持ちに素直になってみようって思ってるんです! 今までしなかったこととか、できなかったこととか、沢山やろうって決めたんです!」
そして最後に今までで一番大きな声で彼女は叫んだ。
「――ちゃんと心から笑いたいんですっ!」
子供のようにはしゃぐ彼女はやはり吹っ切れた顔をしていた。
彼女はその強さと弱さで運命に打ち勝ったのだ。
その足が打ち寄せる波を大きく蹴ると、水飛沫が高く上がった。
それはまるで大切な想い出のように、光の粒がきらきらと舞っていた。
✿
これはとある少年と少女の、不出来で不格好なおとぎ話。
運命の出会いの物語。
完




