終章 夢のあとのエピローグ②
白河凪紗が母親の英恵と病室から出てくるまでの短い時間、紡は白河凪紗の兄である白河海斗と病院の駐車場で少し話をした。
「君は妹の病気のことを知っているみたいだな」
「ええ、まあ。成り行きで」
「妹がこの町に来た事情も知っているみたいだな」
「そうですね」
「凪紗と母親が微妙な関係なことも知っているな」
「ええ、まあ」
白河海斗は、「ふーん」と言うと、話を始めた。
「うちの母親は小学生のときに両親が死んでから、親戚の家を転々としていたせいで『良い子』でいることに物凄く執念みたいなものがあるんですよ。俺は父親に似て自由人だからまだ良かったんだけど、母親はどうも同性の凪紗に対して、自分を重ねているみたいでね」
少し深刻な話を間延びした声で話す白河の兄は表情こそ違うが、明るい髪色と瞳の色も含めて、妹と良く似た顔立ちをしていた。
「母親は困ったことに自分と子供が別の人間だって、まだ理解しきれてないみたいなんですよねー。凪紗だっていつまでも子供じゃないし、俺よりしっかりしているところも多いし。そういうこと、気付いてくれると良いんですけどねー」
白河海斗は駐車場に白河凪紗と歌雲英恵が現れるのを目で追うと、紡の方に近寄って紡の肩に手を置いた。
「というわけで歌雲くん。君が卒業するまでもう一年も無い訳だけど、どうかほ(・)ど(・)ほ(・)ど(・)に、凪紗と仲良くしてやってくれ」
「はあ。おせっかいですね」
紡は失礼な言葉をギリギリ失礼じゃない音で言う。我ながら胡散臭い笑顔で。
(たぶんこの人にはバレているだろうけど)
「まあ、兄っていうのは妹を甘やかしたい生き物なんだよ」
(気付かないふりをして見せるのも兄妹だな。こっちの方が何枚も上手そうだけどな)
「そうですかね」
紡は自分よりも大分年上の兄の顔を思い浮かべるがピンと来ない。そもそも男兄弟だが。
「言葉が喋れなくても自分の手を握ってくれて、必要だって伝えてくれる存在が大事じゃないわけないんだよ。俺は凪紗が生まれた時のことをいまだに夢を見るくらいだ」
冗談なのかそうじゃないのか分からない顔と声音で白河海斗は言う。しかし、言っていることは少しだけ理解できる気がした。
「こんなにお兄様が大事に思っているっていうのに、うちの妹ときたら全然頼ってこないし、最終的には良く知らない男に助けを求めているみたいだし、全く面白くないよな」
腰に手をあてながらこちらを間近で見上げてくる表情は不敵だ。そしてほんの僅かの時間、彼女と話しただけで彼女の変化に気が付いたのは超能力と言っても過言ではないと思った。人の表情を読むのが上手いのは兄妹揃って得意なのかもしれない。
「良く分からないですけど、妹さんも年頃なので兄離れの時が来たんじゃないですか」
「他意がないのはなんとなく分かるが。分かるんだが……一発殴らせて貰っていいかな?」
「嫌ですよ。なんで俺が殴られなきゃいけないんですか」
「ちょっと……! 海斗くん、何してるの?」
白河海斗が紡に拳を向けてきた丁度のタイミングでその妹が紡たちの間に割って入ってくる。
「……なんでもないです」
白河海斗は拳を固く握っているのに、笑顔で言っているのが不気味だった。
その後は、紡の母親の運転する車で、白河兄妹の祖父母の家に向かった。紡が座る助手席の真後ろから自身の後頭部に敵意を感じながらの道中はあまり気分の良いものでは無かった。
(絶対に何か勘違いされているが、訂正するのもそれはそれで面倒だ)
✿
凪紗がカミカクシに遭い、祖父母と住む家に戻ったその日の晩。泊まっていくことにした兄がお風呂に入っている間に凪紗は祖父母と話をした。
「あのね。おじいちゃん、おばあちゃん。私と一緒に暮らしてくれて、ありがとうございます」
正座をし、頭を下げる凪紗に二人は慌てた様子だった。
「急にどうしたの! 凪沙ちゃん」
「そうだぞ」
「……いいえ。ただ、ちゃんと言いたくなったんです」
凪紗の表情に二人は何かを察したようだった。柔和な笑顔に真剣さが重なるのを凪紗は見逃さなかった。
「凪紗。それはこっちの台詞なんだよ」
持っていた湯呑みを置いた祖父は凪沙に向き直る。
「そうよ。凪紗ちゃんが来たおかげで、毎日張り合いがあってとっても楽しいのよ」
今度は祖母が凪紗の方に膝を向けた。
「私が? 張り合い?」
「そうだぞ」
「そうよ」
凪紗の問いに二人の声が重なった。
「年寄り二人で暮らすっていうのは、こんな田舎町じゃちょっと退屈なんだよ」
「毎日凪紗ちゃんが『美味しい』ってごはんを食べてくれて。『行ってきます』って言って出掛けていって。『ただいま』って帰ってきてくれる。それはとっても嬉しくて楽しいことなのよ」
二人はとても楽しそうに笑ってくれる。
(私も「いただきます」とか「行ってらっしゃい」とか「おかえりなさい」と言ってくれる人が居ることがとても嬉しかった)
凪紗はその気持ちを思い出す。
(……二人も同じだったんだ。同じ気持ちでいてくれたんだ)
「何よりかわいい孫が近くにいてくれる」
「そんな幸せなことってないのよ」
自分がここに居てもいいのだと、そう赦された気がした。
「……ありがとう…ございます。私の方が、ぜったいぜったい、幸せです。ありがとうございます……おじいちゃん、おばあちゃん……ありがとう」
凪紗は小さなとき以来、はじめて祖父母の前で泣いた。左右の手の甲で必死に涙を拭う凪紗の頭や背中を二人が優しく撫でてくれたことを、その手がとても温かかったことを凪紗はきっと一生涯忘れない。
それから凪紗は実家にいる母に手紙を送った。
とても短い手紙を。この町の海の色をした封筒に真っ白な便箋で。
「お母さん
お元気ですか。
私は元気にしています。
私はお母さんの期待に応えられなかった娘です。
これからもきっと。だって私は私の人生を歩んでいくから。
それでも、そんな私を愛してくれたら嬉しいです。
凪紗」
母からの返事はなかった。
代わりに何も書かれていない季節外れの満開の桜の木が描かれた絵葉書が一枚届いた。
いつか、彼女と折り合える場所を、重なり合える場所を見つけられるのかもしれない。もしかしたら、見つけられないのかもしれない。凪紗は子供で大人の支援を受けなければできないことが沢山ある。凪紗はちゃんと現実を知っている。凪紗は何も感じない人形ではないのだ。
いくら血が繋がっていても、人は同じ気持ちにはきっとなれない。
人の心はきっと、似た形はあるのかもしれないが、それぞれに違う形や色をしているから。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。全部全部、凪紗だけのものだから。
人は完全に理解し合うことなんて絶対にできない。それでも――。
海外にいる父にはメールを送った。
「お父さん
きっと今日もどこかで写真を撮っているのだと思います。
私は波雲町で自分のことを知っていきたいと思います。
クラスにお父さんのファンだという子がいました。
私もお父さんの作品が好きです。応援したいってずっと思っています。
だけど、たまにはこちらにも顔を出してくださいね。
凪紗」
その後にビデオ通話を掛けて来た父の顔は、少しだけ涙ぐんでいるように見えた。
「お父さん。私、波雲町に来て良かったよ」
凪紗は心からそう伝えることが出来た。
凪紗はもう流されるだけの海月ではないから。