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第一章 桜の花は夢の終わりを告げる②


 引っ越しの翌日、白河凪紗は町の中を歩いていた。


 海と山に囲まれた田舎町である波雲町は決して人口が多いとは言えない。商店が並ぶのも駅周辺の一角だけで、見るのにほとんど時間が掛からなかった。

 駅周辺を見た後、凪紗が受験の時から気になっていた町の新しい図書館まで足を延ばした。そこは、町の端から端へと通り抜ける大通りから脇道に逸れ、踏切を渡った先にある。

 まだ新しい図書館は硝子張りで外から見ても広く、田舎の図書館とは思えなかった。

 見上げれば、磨かれた窓硝子には敷地に植えられた桜が映り込んでいた。出会いと別れの季節の象徴とも言えるその花を見て、凪紗はもうすぐ自身が入学する波雲高校を見に行こうと思い立った。


 咲き始めの桜の花が両側を彩る薄紅色の坂道を上がっていくと、波雲高校の校舎が見えてくる。先刻訪れた図書館と同じく、線路よりも山側にあるが、高校の方が少しだけ駅から離れていて、少しだけ小高い場所にある。祖父母の家がある海側に背を向け、山に向かって上る坂道の左手前にグラウンドが見え、その先の道沿いに校門がある。春休みの部活動があるせいか、門自体は解放されていた。

 もうすぐ入学するので咎められることはないだろうが、中に入るのは気が引けたため、凪紗は敷地の周囲をぐるりと回ることにした。周辺は山の地形を生かしているため、緑豊かで心地良い。

 受験の時は気にしていなかったが、歩いてみると意外と敷地は広く、少し暖かい今日は歩いているだけで少し汗ばんだ。校門からおよそ半周したあたりの場所まで来ると、少しだけ景色が変わった。それまであった無機質な柵とは違う、白い塗料が塗られた木製の扉が現れた。

 その白い扉は凪紗の目線ぐらいの高さで、塗られた白色は、年季が入ってくすんでしまっている。しかし、扉の前の草が成長を止めているところを見ると、最近も人が出入りしていることが伺えた。何より猫一匹が通り抜けられそうな幅で扉が開かれていることがその証だった。  

 好奇心に負けて扉の向こう側を覗くと、扉と同じく白塗りにされている木造の建物が木々の向こう側に見えた。

 その古い建物の横には、年輪が幾重にも刻まれていそうな大樹と呼べる桜の樹が見えた。

 その桜は少し早咲きなのか既に満開を迎えており、春風を受けてひらり、ひらり、と花弁が舞い落ちていっていた。

 凪紗は白兎を追い掛ける少女のように、その花弁を追いかけた。そして気が付けば、白い扉よりも、もっとその先へと足を踏み入れていた。ところどころに草が生えた土を踏みながら近付いていくと、桜の樹の下には小さな鳥居と祠を見えた。木々とまだ淡い緑と鳥居の赤。そして咲き誇る春色の花弁。


「綺麗……」


 ただ、そうとしか言い表せない光景だった。時計が針を進めるのを嫌がっているように、時間がゆっくりと流れていた。凪紗はその桜の樹の下に吸い寄せられるように、自然と歩を進めていた。一つ一つが焼き付いていた。そして夢を見るような心地で言葉を紡いでいた。

「桜の精でも住んでいそう……」

 そう錯覚するほど、それは美しい光景だった。一歩一歩進み、その樹が枝を伸ばす真下まで辿り着いたとき。


「――っ!」


 幻想的な風景が一気に凍り付くような感覚に侵された。景色に魅入っていた凪紗の身体に、内側を這うような悪寒が走った。全身の血が引いていくようなゾクリとする感覚に、凪紗の身体は震え、大きく肩が揺れた。


【……テ】

 葉音に混ざり、声が聴こえた気がして、凪紗は恐る恐る耳に手をあてる。

【……テ……タ……ケ…】

「な…に……?」

 凪紗は目を閉じて更に耳を澄ました。

【……タス……ケ……テ……】


 やはり聞こえてくるそれは本当に桜の精がいるのかと疑うようなか細い声だった。しかし、その声は桜の精などというような『幸福』な気配ではなかった。寧ろその逆だった。


【タスケテ……――――】


 そう聴こえた。

 しかし、その声は灯が立ち消えるように唐突に消えた。寒い冬に突然一人で放り込まれたような感覚が一度に散り消え、残されたのは、ほんのりと暖かい春の空気だけだった。消えた雪の欠片を探すように辺りを見渡すが、先程までの感覚も声も、その跡形も残すことなく消えて去っていた。

「空耳……だったのかな。うん、そうだよね」

 自分に言い聞かせるように呟き、桜の大樹を見上げる。言葉に出しても落ち着かない心地の居場所を探すように、凪紗は白熊のように桜の樹の前を彷徨った。そして、再び声を聴いた。

「……気が散る。用が無いなら立ち去って欲しい」

「――はいっ!」

 突然聴こえたその声に凪紗は脊髄反射で返事をしていた。今度は空耳ではなかった。

 声が聴こえた方向に視線を巡らせると、突然強い風が吹き抜けた。反射的に瞬きをしながら、風に攫われる髪を抑えた。目の前を薄紅の花弁が通り過ぎ、瞳に映る世界が一瞬、桜の色に染まった。薄紅の幕が上がった後、凪紗の瞳には今度こそ、声の主がはっきりと映り込んだ。

 そこには大樹の根本に座り、本を読んでいる男の人がいた。

 この敷地内にいて制服のスラックスを履いていることからも、おそらくこの高校の生徒なのだろう。大人びて見えるがまだ大人ではない。だけど、ひとつひとつの部品(パーツ)がしっかりとした賢そうな顔立ちだ。白いシャツから覗く日に焼けていない白い首筋と、それとは対照的に漆黒ともいえる柔らかそうな黒髪と漆黒の瞳が印象的だった。座っていても、すらりとした長身であることが分かった。

 長い足は片方だけ軽く立てられていて、もう片方の腿の上には、開いた本が置かれていた。

(――すごく綺麗な人)

レースのカーテンが風に揺れるように、舞い落ちる花弁たちが凪紗と彼の間を隔てていた。写真に写したような一枚絵に凪紗は思わず固まっていた。だから、相手がこちらを怪訝そうに見ていることにも気付けなかった。

「……いつまで人のことをじろじろ見ているつもりだ」

 凪紗は目の前の彼の言葉に現実に引き戻され、靄がかかっていた意識は急速に覚醒し、自身の不躾な態度を恥じた。

「すみません! すぐに立ち去ります!」

 凪紗は勢い良く頭を下げると、そのまま回れ右をする。逃げるように白い扉から敷地の外に出て行った。



「ただいま戻りました……」

 祖父母の家に帰ってくると、厚さはそんなに無いものの大きい白い箱が主張するように居間に置かれていた。

「あのね、凪紗ちゃん! 制服が届いたのよ!」

 居間に入った瞬間、祖母は目を輝かせながら前のめりに凪紗に報告をしてくる。その圧に負け、おろしたてのセーラー服を着てみせると、二人は大喜びしてくれた。

「凪紗ちゃんは可愛いわねえ」「うちの孫が世界一だ」

 二人が目を輝かせて凪紗を見ているので、凪紗は流石に照れてしまう。

「おばあちゃんもおじいちゃんも大げさですよ」

「凪紗ちゃんは本当に可愛いのにねえ」「そうだ。凪紗は可愛い」

「あはは」

(私は今日、女の人よりも綺麗な顔の人を見ましたよー)

 凪紗はそんなことを内心呟く。まだ糊の効いた制服と過剰なまでの褒め言葉に凪紗はどこかこそばゆい気持ちになった。

 それから春休みが終わるまでは祖父母の手伝いをしたり、読書をして過ごした。



 入学式前日の夕方。凪紗は日課となりつつある海岸線の散歩をしていた。堤防の向こう側にある砂浜に降りてしばらく歩いた後、凪紗は砂浜に座り込んだ。

 砂の感触と太陽が沈む前の海の色を確かめていると、遠くに船が走っていくのが見えた。波の音と風の音、指が撫でる砂の音だけが聴こえていた。

 しばらくすると、少し離れた場所から賑やかな声が風に乗って聴こえてきた。凪紗は目を細めながら見つめると、高校生と思われる集団が砂浜に降りてきた。彼らはじゃれ合いながら海の方へと真っ直ぐに向かっていく。

 まだ冷たいはずの海水をかけ合い、走り回る彼らの姿はきっと年相応の姿なのだろう。

「楽しそうだなあ」

 夕陽を反射する海のきらめきと空気中の塵の光と相まって、それはとても眩しく映った。あまりの眩しさ故に、それはどこか遠い世界かスクリーンの向こう側の景色のように感じられた。

「……私も明日から高校生か」

 波音に消すように呟くと、凪紗は立ち上がって祖父母の待つ家へと戻って行った。


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