終章 夢のあとのエピローグ①
世界が捻じれるように歪んだ後、凪紗は白い光から弾き出された。
「――きゃっ!」
宙に放り出される感覚だった。
「二人とも無事に戻ったわね。おかえりなさい」
「藤原さん!」
倒れ込んでいる凪紗はその声に振り向く。しかし、自分の身体の下から声がして、すぐにそちらを向いた。
「おい。どいてもらえないか」
凪紗は紡先輩の上に折り重なるように倒れていた。
「ごめんなさい!」
凪紗は慌てて紡先輩の上からどき、その横に正座した。
「やだ、紡君ったら。可愛い女の子に乗っかられるなんてラッキーじゃない」
「……ふざけないで下さい、藤原さん」
先輩は埃を払うようにして立ち上がった。
「あら……凪紗ちゃん。その上着って」
「あ、紡先輩。お返ししますね」
凪紗は急いで借りていたブレザーを脱ぎ、紡先輩に差し出した。
「でも、汚れちゃっているので、クリーニング、いえ修復に出してからお返しした方が……」
「別に良い」
凪紗が手を引っ込めようとするが、紡先輩は凪紗の手から奪うようにそれを受け取った。
「ありがとうございました、紡先輩」
そんな二人のやり取りを藤原さんはきらきらした灰色の瞳で見ている。
「あらあら一体中で何があったのかしら」
藤原さんが書守の関係者というのは本当らしい。
「ところで今は一体いつなのでしょうか」
そう問い掛けながら窓の外を見ると、夜明けのような色の空だった。
「凪紗ちゃんと紡君が居なくなってから、一晩。今は朝の五時よ」
「……どうしよう。おじいちゃんとおばあちゃんに気付かれてないと良いんですけど」
二人はまだ起きていないはずだが、凪紗が部屋に居ないことに気が付いていないことを祈る。
「大丈夫よ。そういうのを隠蔽するのは、私たち得意分野だから」
「それって……?」
凪紗が言いかけると、まだ座り込んだままの視界を遮るように紡先輩は凪紗の前に立った。
「……?」
首を傾げた凪紗の前で紡先輩は軽く腰を折り、凪紗の額にその指先を伸ばした。
「これで全部終わりだ。どうせ君も全部忘れるんだから。……安心しろ、想いはちゃんと残る」
「え……?」
もう何度か見た黄金の陣が現れ、凪紗は目の前にある綺麗な顔を見上げる。その顔に表情はなかった。
【泡沫に封じよ】
その声と共に、凪紗は光に包まれた。
眩しさが収まってから凪紗は恐る恐る目を開けるが、何も起こった様子は無い。
「……紡先輩? どうかしたんですか」
「……君は本当に何なんだ」
紡先輩は呆れるような苛立った瞳で凪紗を見下ろしていた。
❀
【泡沫に封じよ】
紡は目の前できょとんと座る少女に記憶を消す術を施した。
しかし、それは掛からず、もう一度術を掛けた。今度は念のため術の掛かりが良くなるように、自分の両手で彼女の顔を抑え、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
彼女はなぜか頬を染めながら虹彩を揺らし、こちらを見るがすぐにそれを逸らした。
「……あの、さっきからなんなんでしょうか」
紡は目の前の少女が「流石に恥ずかしいんですけど……」と、もごもごと言っているのに気が付かずにいた。なぜならまたこの少女に関する異常事態に戸惑っていたから。
「……何故、記憶が消えない」
いつもは施す記憶隠蔽の術がなぜか効いていないようだった。
(こちらの世界やあの世界での出来事からそんな気はしていたが)
「やっぱり才能があるのね、凪紗ちゃん」
楽しそうに笑う藤原京子を紡は睨み上げた。
「どういうことですか。こんなこと聞いたことがないですよ」
「そうね。一千万人に一人の逸材なんじゃないかしら」
「どういうことですか。こいつには【人祓いの術】も【忌避の術】も【浄化の術】も効かなかったんですよ。……どうして、書守の血が生きているんですか」
紡は最後の言葉だけ、藤原京子にだけ聞こえるように尋ねた。
「なるほどね。それでいつもより大分時間が掛かっていたのね。それに、気付いたのね」
気付いたというのは、十年前の少女が白河凪紗だということだろう。
(やはり、知っていたんだな)
紡は額に手を当てて溜息を吐き、再び小声で話し始める。
「こいつには、俺の力はもう残っていないと昔……」
「そうよ。検査結果の報告で嘘はついていないわ。現に彼女は昔のことを思い出さなかったでしょう」
藤原京子はかつて、書守を束ねる立場に居た。十年前、彼女は兄の上司だった。
「……なら、どうして」
「それは分からないわ。でも、きっかけは紡君と再会したことかもしれないと私は考えているわ。そして、凪紗ちゃんには元々そういう才能があるんじゃないかとも思っているわ」
「…………」
「あのう…すみません……」
紡と藤原京子の静かな問答は、片手を挙げている白河凪紗に遮断された。
「さっきから一体お二人は何の話をされているのでしょうか」
白河凪紗は紡と藤原京子の顔を交互に見つめる。しかし、その焦点がぶれるのを紡は見逃さなかった。
「な、に……?」
疑問を漏れ出らしながら、彼女の言葉は途切れる。その身体は抗えない力で地面に吸い込まれていくように、後方へと倒れていった。
「――おい、白河!?」
紡は慌てて駆け寄り、その背中を身体ごと支えた。
✿
「つむぐ、せんぱい……」
目を覚ますと、白い天井が見えた。すっかり嗅ぎ慣れてしまった消毒液の匂いで、凪紗にはそこが病院だとすぐに分かる。窓の外は明るく、もう昼が近いようだった。
「つむぐ先輩って誰だ」
目の前が暗くなったかと思うと、そこには凪紗が良く知っている顔が覗き込んでいた。
「……海斗…くん?」
「おはよう、凪紗。いい夢は見られたか?」
そこにいたのは凪紗の兄の海斗だった。
「海斗くん……なんでいるの?」
「お前が倒れたと聞いて駆け付けたお兄様に向かって、何でとはなんだ」
そう言いながら、兄は凪紗の髪を撫でてきて、凪紗は反射的に目を閉じた。
「それで、海斗くん。なんでいるの」
「ああ、それは」
その時、引き戸がガラリと鳴って、誰かが入ってきたことを告げていた。
「……俺が呼んだんだ」
「紡先輩」
凪紗がそう呼ぶと、紡は小さく「やはり忘れていないか」と呟いた。
「そうか、君が『つむぐ先輩』か。歌雲くん」
「海斗くん、なんで殺気を放っているの」
「放っていない」
(今この瞬間も放っているじゃない)
そしてもう一人病室に入ってきた人物がいた。
「あら、凪紗ちゃん。目が覚めたのね。動けそうならお兄さんと一緒に送っていくけれど」
それは凪紗の主治医の英恵先生だった。
凪紗が返事をする前にその人物に声を掛ける人が居た。
「母さん」
それは紡先輩だった。凪紗は寝起きの頭で処理が追い付かず、一瞬固まる。しかし何とか言葉を発した。
「……母さん?」
その声は我ながら間抜けだった。
「俺の母だ」
「紡の母の英恵です」
英恵先生はなぜかキリっと自己紹介をする。
「えっ。……えーーーっ!?」
凪紗は叫んだ後に、ここは病院だったことを思い出して慌てて口を押える。凪紗の横に座る兄は事の成り行きを珍しく静かに見守っているようだった。
「え、でも英恵先生は、笹野先生ですよね」
「それはねえ旧姓なのよ。笹野だったときからあの病院でお世話になっているから、そのままにしているのよ。歌雲の名前を使うと変に絡んでくるお偉いさんもいるしねー」
凪紗は首を傾げるが、取り敢えず英恵先生と紡先輩は親子関係にあるということは理解できた。
(そういえば前に高校三年生の息子がいると言っていた気がする)
「さっ。送っていくわよ、凪紗ちゃん。昨日は放課後に具合が悪くなって、紡が藤原さんと一緒にうちの病院に連れて来たけど、もう大丈夫そうね。怪我しちゃっていたところは手当しておいたから」
何だか良く分からないが、そういうことになっているらしい。そして英恵先生は説明口調で凪紗に状況を伝えてくれているらしい。右手は少し痛むが綺麗に包帯が巻かれていた。
(家業みたいなことを言っていたし、英恵先生もカミカクシのことを知っているんだろうな)
そしてどうやら昨日の夕方に家に帰ったことが無かったことになっているらしい。きっと紡先輩が凪紗に掛けようとした記憶を消す魔法みたいなものが、祖父母に掛けられているのだろう。もしかしたらここにいる兄にも。
「はい。分かりました。すぐ着替えて準備しますね」
凪紗は状況を把握し、寝ていたベッド横の棚を見ると、何故か破れても汚れても居ない新品のセーラー服が置かれていた。
(あんなボロボロのどろどろだったのに)
凪紗が着替え終わったことを告げると、兄は凪紗の荷物を肩にかけて一足先に病室を出ていった。その後を紡先輩が出て行くと、部屋には凪紗と英恵先生が残される。
(それにしても、「クールなイケメン」か……)
いつか英恵先生が言っていた自分の息子の正体。凪紗は英恵の肩をつんつんとつつき、こっそり耳打ちする。
「紡先輩が英恵先生の息子さんだったんですね」
凪紗よりも背の高い英恵先生は凪紗の身長に合わせて少し屈んでくれた。この仕草はどこか彼女の息子を思わせた。
「息子さんは言う程クールじゃないかもしれませんよ」
「あら、そう。それは凪紗ちゃんのことを可愛いと思っているからかもしれないわね。誰だって可愛い子の前じゃ、冷静じゃいられないわよ」
「それはないですよ……先輩は私の事ちょっと苦手だと思いますよ」
凪紗は本心からそう言った。




