第五章 眠り姫に目覚めのキスを①
雪は降り止まず、瞬く間に世界を覆って。
まるでこの世界ごと白く塗り潰すかのようだった。
「寒い……」
凪紗は口元に指を添え、息を吐きかける。歌雲先輩が持っていた火を出す札は先程最後の一枚が燃え尽きてしまった。
凪紗の足はガタガタと震える。早くこの世界から出なくてはいけないと思うのに、最初にこの道を辿った時よりも遥かにその足はゆっくりと進んでいた。それは失っていた感情を取り戻したことと関係があるのかもしれない。それは強い恐怖だった。
「先輩。私は、このまま死ぬんですか」
真っ白な息が空に立ち上って消えた。それと一緒に凪紗も消えてしまいそうだった。
「私が死んだら、先輩はどうなりますか」
「俺も死ぬな」
凪紗の横からサクリと雪を踏みしめる音がした。それを振り返ると凪紗の足が深く沈んだ。しかし、凪紗の存在を繋ぎ止めるように腕が掴まれ、深く沈み切る前に凪紗を力強く支えてくれていた。
「そうですか……。ところで時間制限が来たらいずれにしろ先輩も、なんてことないですよね」
「ご想像通りだ」
淡々と怖いことを言う人に凪紗は苦情を告げる。
「……そういうことは早く言ってくださいよ」
「言っただろう。これは俺の失策だって。その責任は取るつもりだった」
「……責任ですか。つまり、私が死んで、先輩も死ぬっていうことですよね……」
凪紗は爪が食い込むまで拳を握る。右手に巻いた包帯から血が滲む気配がした。
「それは、嫌だなあ。……私は、そんな心中みたいなこと、したくないなあ」
凪紗は天を仰いだまま苦い笑顔で呟いた。声が震えたのは、きっとこの寒さのせいだ。
「先輩は死ぬの、怖くないんですか」
「言っただろう。怖いものなんて無いって」
「先輩は本当に嘘つきですね」
凪紗はこの人の、この何も感じられない瞳が苦手だった。何も感じさせてくれない人にはどうやって接したら良いか分からないから。何も感じさせてくれないから。だから、自分の気持ちに真正面から向き合わされている気持ちになっていた。お前はどうしたいのか――と。命綱を持たないままに綱を渡らされ、下から冷たい風が吹き、たやすく縄が揺れるような恐怖を感じていた。
「私は……怖いですよ」
「……何か言ったか」
凪紗は歌雲先輩の腕を今度はこちらから掴んだ。
「先輩。私、死ぬのが怖いです。……だけど、先輩を死なせてしまうことはもっと怖い」
「なら死ぬな。前に進め」
真っ直ぐに前を見つめるその瞳に凪紗は少しだけ勇気づけられた。
「はい」
今どこに居るのかも、月の高さも分からない。きっと残された時間はそんなに無い。だけど、感じる。進む方向は分かる。ずっと【タスケテ】と呼んでいる声が、凪紗の耳にははっきりと聴こえているから。だけど、真っ直ぐに進むことが正解ではないこともある。
「――っ!」
身体を強く引き戻されると、白い雪から飛び出す茨の棘が凪紗の眼前に迫っていた。
「……行き止まりか」
「そうみたいですね」
「寒くないか」
「寒いですよ。さっきからそう言っているじゃないですか……」
そう頷いた瞬間。なぜか瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「なぜ、泣く」
歌雲先輩の真っ黒な瞳に、伝っていく自分の涙が映った。
「だって、こんな意味わかんない状況で泣くなっていう方が無理ですよ。ひぐっ……。先輩、怒ってるし。怖いし……だけどまた泣いたら軽蔑されそうだし。うう……」
「別に怒っていないし、軽蔑もしない」
その瞳は言葉とは裏腹に少しだけ怒っているみたいに見えた。
「じゃあもっと優しい顔してくださいー……」
「優しい顔ってどんなだ」
今度は怪訝で困った顔。
「じゃあなんか、雨の中捨てられた猫を愛でる不良みたいな感じで……」
「君は無茶苦茶だな。それに結構な泣き虫だ」
「そうですよっ! だからちゃんと甘やかしてくださいっ! 優しくしてくださいっ!」
凪紗は身を乗り出して、子供のように言っていた。そんな記憶はもちろんないけれど、いつかこんな風にこの人に甘えた気がした。
包帯が巻かれていない左手を先輩が着ている制服のブレザーに伸ばし、まるで赤子からやり直すように、凪紗はわんわんと泣いた。上着を寄越せと言われたのと勘違いしたのか、歌雲先輩は自分が着ていた上着を凪紗に羽織らせてくれる。
(あったかい……)
その顔はどこかぎこちないけれど、確かに先程よりも優しい瞳に見えた。それを見た凪紗の瞳からもっと涙が溢れ出す。
「何故、もっと泣く」
先輩はぎこちない手で凪紗の頭を撫でる。
「だってえ……」
「子供か! 君は!」
「知らないんですか先輩! 十五歳は十分子供なんですよっ!」
「君は取り繕わなくて良くなった瞬間に酷いな……どれだけ泣くんだ」
呆れるように言う声は、その言葉よりも優しかった。
「先輩、私が笑うの嫌いなくせに!」
「……気付いていたのか」
「気付きますよ! 私が笑うたびに怒った顔してたら!」
嫌そうな顔をするくせに、凪紗の頭を撫でる手は髪に触れたままだった。
(先輩の手は優しい)
「……別に今は嫌いじゃない」
凪紗はきょとんとして、すぐ近くにある整った顔を見上げる。そして思い浮かんだ願いをそのまま口にした。
「ねえ歌雲先輩。先輩のこと、紡先輩って呼んでも良いですか」
「……嫌だ」
唐突な発言に驚いたのか、その答えは一瞬遅れだったが明確に拒絶される。
「どうしても、そうしたいのに?」
「嫌だ」
「……そんなに拒絶されたら私、悲しくて泣いちゃうのに?」
「……勝手にしろ 」
「ありがとうございます、紡先輩!」
凪紗はまた一つ何かが許された気がした。何かを一つ知ることが出来て、手に入れることが出来た気がした。やっぱり嫌そうな顔をする顔を見て、それでも許してくれることが嬉しくて。凪紗は笑った。
二人の上に雪は降り積もる。世界は白く塗り潰されていて、それはとても絶望的なのに。その白はとても美しかった。
凪紗は髪に触れる自分よりも大きな手を握る。握った手は雪で凍えて冷たいのに、温かくて。
(紡先輩は優しい。知らない怖さを乗り越えたいと思うくらいに)
凪紗は急にすとんと自分の中で何かが腑に落ちるのを感じた。
(……そっか。私は、本当は王子様に助けて欲しかったんだ)
そんな都合の良い幼い自分の考えに気付く。
優しくしてもらって、甘やかして欲しかった。自分を救うためには自分の足でちゃんと歩かなくちゃいけなかったのに。
(だって私は。眠りの中に、夢の中にいるお姫様とは違うから)
「――――っ!」
(……そっか。……そうだったんだ。私は彼女とは違うんだ)
「どうかしたか?」
(眠り姫の眠りを覚ます方法――この世界から出る方法が分かったよ)
「ふふっ。紡先輩、あったかい」
雪を溶かす温かい涙が地面に落ちると白くて寒い冬が終わり、世界は再び鮮やかに染まる。
「……何かしたのか」
凪紗は微笑みながら小さく首を振った。
「いいえ。ただ、足りなかった最後の頁を見つけただけですよ」
雪はダイアモンドダストのように光って収縮し、凪紗の掌に収まった。黄金色の頁が凪紗の手に握られるが、今度はその頁は絵本の中に消えることはなかった。凪紗はそれを大事に本の中に挟んだ。
黄金の春が来る。
先程まで降っていたあの雪は凪紗を阻む雪ではなかった。あれは凪紗にこの旅の終着地を教える祝福の雪だったことに凪紗は気付く。
「そうだよね。あなたはずっと私の味方だったんだよね」
凪紗はこの世界を形作るものに届けと願いながら、星の降りそうな空を仰ぎ見た。雪が解けた後、城の扉はすぐに現れた。世界は夜更け。夜空には月と星が輝いていた。
大きな正面扉を潜り抜けると凪紗は正面の階段の前で立ち止まり、肩越しに紡先輩を振り返った。
「少しだけ寄り道をしますね」
「ああ」
二人の靴音だけが広い城内に響いていた。
月明かりを便りに石造りの塔の階段を昇っていく。眠り姫が眠っていた塔とは違い、堅牢だが装飾のない階段だ。それはこの城で一番高い塔で、目指すのはその一番上にある場所にある。それが凪紗には分かった。
階段を上りきると一つの扉が現れた。それはあの絵本で見たのと同じ扉だった。質素な木の扉に不釣り合いな金色のドアノブに手を掛けるが、そこは鍵がかかって開かなかった。凪紗はすぐに気付いて絵本の間に先程挟んだ黄金の頁を取り出す。
「扉を開けたいの。出来るよね」
凪紗がそう言うと黄金の頁はその姿を鍵に変えた。凪紗は導かれるようにその鍵を鍵穴に差し込むと、カチャリと小気味の良い音が鳴って扉が開いた。部屋の中に入っていくと、そこには古い糸車がぽつりと淋しく置かれていた。眠り姫がその指を刺した針が月明かりを反射して怪しく光っていた。
きっとここを越えれば、ゴールはもう間もなくだ。凪紗は深呼吸をすると、紡先輩の方を振り返った。
「紡先輩。聞きたくない話を沢山聞かせてごめんなさい。あんな懺悔は、きっと先輩の重荷にしかならないと分かっていたんです。私の我儘だと分かっていて、それでも誰かに聞いて欲しかった。歩き出すための、終わらせるための覚悟が欲しかった」
「…………後輩の我儘を一度くらい聞くのも先輩の役目だ」
「あはは。なんですか、それ」
予想外の返答に笑った後、凪紗はもう一度糸車に向き直った。
「もう呪いなんて必要ないから。もう、終わりにしよう」
凪紗はそう語りかけた。
――呪いなんて理由付けはもう要らないから。私はもう大丈夫だから。
凪紗の願いを受けて、黄金の鍵が今度は黄金の剣に姿を変える。凪紗はその剣を振りかぶり、糸車を壊した。ガシャンと響く音の後、壊れた糸車は黄金の剣と共に消えていった。
――剣は王子様の物。だけど、私には呪いを解いてくれる王子様なんて要らない。一緒に歩いてくれる誰かが居れば良い。
凪紗は入口で凪紗を見守っていた紡先輩を振り返った。
「これで心残りはもうありませんから。眠り姫の元に行きましょう」
瞼に溜めた涙は、瞬きとともに流れ落ちた。
【タスケテ】
凪紗だけに聴こえているその声は段々と小さくなって、消え入りそうだった。
残り時間はあともう僅かだと凪紗に告げていた。




