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第四章 小さき黒魔女⑥


「……歌雲先輩、確かに私は運が悪かったかもしれません」

 凪紗は振り向くと、いつもの顔でくしゃりと笑った。

「でも、私は間違ってばかりいたんです」

 目の前で歌雲先輩が何かを言いかけて、言葉を飲み込んだのが分かった。


(最初の間違いは、自分の気持ちに耳を傾けることをやめたこと。そして自分以外の他人に伝える言葉を惜しんだこと)

「私、本当はずっと誰かに『助けて』欲しかったんです」

 ただ、【タスケテ】と言えなかっただけ。

 凪紗は目の前の茨のように、自分を守るために虚勢を張り続けた。


(だけど、私は桜になりたかった。儚くても良いから、優しい色で人を喜ばせたかった)

 いつも失くして、手放して、その後で失ったことを嘆く。いつも手遅れになってからそうだと気付く。

(どうして私はいつもそうなんだろう。どうしてこんなに愚かなんだろう)

 それが分かってしまった。理解してしまった。

「だけど、私は『助けて』と言わずに、それでいて内心誰かに助けてもらいたがっていた卑怯者なんです。心のどこかで自分のことを可哀想だって思っていたんですよ。可哀想だから逃げても仕方がないって、そんな狡いことを思っていたんですよ」


 勇気を出せなかっただけ。目を逸らしていただけだった。見ているふりをしていただけだった。

 そうやって現実を受け入れたふりをしていた。

 だけど本当は、自分自身に言い訳しただけ。

 弱い自分を演じれば、楽だから。強い人は元々強いと思い込みたかっただけ。

 弱いままでいる自分を正当化するために。

 逃げ続ける自分を正当化するために。その選択肢を排除した。


「――それ以上、自分を傷付ける言葉を言わなくても良い」

 その言葉に振り仰ぐと、歌雲先輩は紫色に変わっていく夕空を見つめていた。

(やっぱり、この人はとても優しい人だ) 

「いいえ、先輩。聞いて下さい。これは必要なことだから。私は私の汚い部分をもっときちんと認めないといけないから。ちゃんと前に進むために」

 空に向かって伸ばした手が、また一瞬だけ透けて見えた。その向こう側にある城の頭上には、濃紺に浮かぶ一番星が輝いて見えた。まるでこれが道標だと言うように。


「私は『助けて』というただその一言を言う勇気を出すことを怠ったんです。拒絶されることが怖かったから。何よりも自分を守りたかったから」

 もし、助けてと言って、拒絶されたら――。そんなことを無意識に想像して、怖がって、怠けた。そして、自分のことを助けようと思わなくなった。

 そのために人を傷付けた。被害者のふりをしながら、加害者でありたいと願った。沢山の言い訳で、矛盾ばかりの言い訳で自分の気持ちを誤魔化した。焦点(ピント)をずらすみたいに真っ直ぐに見ないようにして、ぼやけた視界でそれを認めたふりをしていた。


「私が悲しかったのは、病気になったことじゃないんです」

 凪紗は最後の独白を始める。

 歌雲先輩から渡されたあの淡い薔薇色の頁が『眠り姫』の絵本の中に溶け込んだ時。それは凪紗の心にも溶け込んで、全てが腑に落ちた。

 失われていた、開けなくなっていた頁たちはきっと凪紗の心の鍵だったのだ。

 無くしてしまえばその箱を開かずに済んだ。

 だけど鍵は戻ってきてしまった。

 黒く醜い部分も含めた凪紗の想いが、凪紗の元に帰ってきたのだ。


「私が悲しかったのは、期待に応えられない自分がふがいなくて情けなかったから。そして何より――」

 凪紗は自分の中に込み上げる想いと闘う。ずっと忘れていた。熱くて痛いこの気持ちを。

「自分の気持ちを素直に言えないくせに、誰かに救いを求めた自分が許せなかったから」


 凪紗は後ろを歩く歌雲先輩を肩越しに見つめた。

(この人も、眠り姫みたいに綺麗な顔をしている)

 綺麗な顔で、綺麗な身体で、綺麗な心で、綺麗なまま眠りについた眠り姫。

 眠りの病に苦しんだ凪紗は、最初は彼女に自分を重ねた。だけど、すぐに気が付いてしまった。あのおとぎ話の残酷さに。


「私は眠り姫が羨ましかった。救われる運命が、幸せに暮らす運命が約束された、あの美しくて綺麗な眠り姫が妬ましかった。それがたとえ、子供のためのおとぎ話の主人公でも」

 凪紗は自分の醜い心に気付いてしまった。

「美しさも賢さも人望も、そういう何もかもを与えられて、何が足りないのって思ってた」

 凪紗は『眠り姫』の話が大好きだった。だから、大嫌いになった。綺麗じゃない自分を突きつけられたから。だから心の奥で自分を悪い魔女に投影した。

 凪紗は振り返り、歌雲先輩を正面から見つめる。

「……もう、十分じゃないって思ってた。だから、ずっと眠ってれば良いって、思ってたんだ……!」

 凪紗は心から溢れ出す言葉をそのまま口から零す。胸の苦しさに、足が止まった。

「……でもっ…ちがったんだ」

 苦くて熱くて痛い。そういう全部が込み上げて、喉がひきつれるようで。

(苦しい。想いが溢れてしまう)

 俯きそうになって、凪紗は抗うように顔を上げる。

「私は、恵まれてるっ!」

 勢い良く上げた反動で、目尻から涙の粒が散る。凪紗は泣いていた。

「私は、……恵まれているんですっ!」

 新しい涙が込み上げるのを感じても拭わず、顔も伏せなかった。

「家族は健康で生きている。毎日食べるものにも、着る服にも困らない。屋根のある家で暮らして、雨風もしのげる。学校に通って、勉強もできる。困ったときには、逃げる場所も与えられて……」

 次々に零れ落ちる涙が地面を濡らす。

「こんなに…こんなに……恵まれているのに。どうして、私はうまく出来ないんだろうって。何で間違った道ばかり選んでしまうんだろうって。ずっと、そう思ってた!」

 自分の心を曝け出す恐怖で肩が震えた。それを堪えるように、足を踏みしめる。

「だけど――本当はっ!」

 それは凪紗の意地だった。

 凪紗は目の前にある綺麗な顔を見上げて、その漆黒の瞳から目を逸らさない。空っぽになるくらいに、想いを吐き出す。この絵本を穢した想いを。

「――本当は、病気になんてなりたくなかった! お父さんとお母さんの期待に応えたかった! 海斗くんにあんな顔をさせたくなかった! 誰にも心配なんて掛けたくなかった! ちゃんと頑張れる私でいたかった! 本当は……本当は――私は、何も、諦めたくなんてなかった……!」

 凪紗は縋るように、目の前の人の両腕を掴む。自分がそこから逃げないよう、戒めるために。

「――本当は思ってた! 勝手なことを言うなって! 何も知らないくせに好き勝手言って、勝手に期待して! 思い通りにならなかったら、がっかりだなんて、ふざけるなって! 本当はそう思ってた! でもそういう風に思う自分も大嫌いだった! だから本心を隠して良い子ぶったの! 聞き分けの良い子のふりをした! そういう自分から目を逸らすために!」

 掴んだブレザーに深い皺が寄る。

(例えこの先何から逃げても、今、この感情からは絶対に逃げちゃいけない)

 狭くなる喉から声を絞り出す。

「――だけど。……本当は、最後まで頑張りたかった! 諦めたくなかった! 海斗くんやおじいちゃんとおばあちゃんに、周りの人たちに迷惑を掛けたくなかった……!」


 何も考えずに笑っていられた幼い日々。

 とうに過去になってしまったその黄金の日々が凪紗には眩しかった。

 海辺で遊ぶ年の近い少年少女、グラウンドを真剣な顔で駆け抜ける少女が、凪紗には眩しかった。

 それは確かに憧憬だった。

「私は、本当は、当たり前の日常を、送りたかった……――!」

 感じるままに泣いて、怒って、笑って。そんな愛しい日々を思い出す。

(だけど、それはもう戻らないから)

 凪紗は縋りついていた手を離し、目の前で凪紗の懺悔を黙って聞く優しい人と距離を取る。彼は凪紗の顔をただじっと見つめるだけで、やはり何も言わない。何も言わないでいてくれる。

「私は人に迷惑をかけないと生きられない自分が嫌い。素直になれない自分が嫌い。逃げてばかりの自分が嫌い。何にもない自分が嫌い」

 自分の嫌いなところなんて、数えたらきりがない。凪紗には沢山の後悔がある。

「だけど私が悪いんです。私は一度だって、誰にも『助けて』って言わなかったから」

 過ぎ去った日々には、後悔ばかりがあった。

「お父さんとお母さんに一度だって傍にいて欲しいなんて言わなかった。海斗くんにも淋しいから帰ってきて欲しいって言わなかった。友達にも体調がおかしいことなんて、一度も言わなかった。私の傍から離れて行かないでって、一度だって言わなかった」

 後悔と思わないようにした小さな想いの欠片のひとつひとつが塵のように積もっていた。  

「私は一度だって、誰かに期待もしなかった。泣きも縋りもしなかった。勝手に決めつけて、諦めてた。怖いって一度だって言わなかった。言おうともしなかった……」


 助けてと言わなかったのも私。

 大丈夫だと言ったのも私。

 何も否定しなかったのも私。

 何もかもを諦めたのも私。

 醜く泣くことを厭うたのも私。

 全部私だった。


「……でも、本当は言わなきゃいけなかった」

(その機会はいくらでもあったのに)

「だって、たとえ世界中の人に拒絶されても、『私』がいるから。自分だけは『助ける』って自分に言ってあげないといけなかった」

(でも私はそれを言わなかった)

「でも、それでも。助けてくれる人がいた」

 凪紗の力になってくれた人たちや、力になろうとしてくれた人の顔が次々と浮かんでいく。

(あのときは気付けなかった)

「そういう優しい人たちのためにも、ちゃんと自分を大事にしなくちゃいけなかった……!」

 凪紗が自分を大事にしていなかったから。だから彼らはいつも凪紗を見て、少しだけ悲しい瞳をしていたのだ。凪紗は敏感に人の『望み』を感じたけれど、それだけは感じることが出来ていなかったのだ。世の中にはまだまだ凪紗の知らないことばかりだ。それなのに知ったつもりになっていた。

(――なんて傲慢なんだろう)

 凪紗が捨てたと思っていた感情は、ちゃんとずっと凪紗の傍にあった。だから今度こそ凪紗は手を伸ばす。もう下を向いたりしない。

「――歌雲先輩。私のことを助けてください」

 それがずっと凪紗は言えなかった言葉。たった一言の言えなかった言葉。

「失ったものはもう戻らないから。幼かった私の願いはもう叶わないから。起こったことは消えないから」


(――だから)

「だから、私はちゃんと始めたい。過去を消すんじゃなくて、やり直すんじゃなくて、今に続く新しい物語を始めたい。ちゃんと前に進みたい」

 それまで黙って凪紗の話を聞いていた歌雲先輩の手が、こちらに伸ばされた。彼が包帯を巻いてくれた凪紗の右手の指先にその手を添えるようにそっと触れられる。思ったよりも優しい力に凪紗はなんだかくすぐったい気持ちになった。凪紗はその指をぎゅっと握り返した。

「だから先輩。私がちゃんと帰れるように、『助けて』ください」

 凪紗が祈るように願うと、緩く手が握られた。

「ああ、分かった。必ず助ける」

 そのたった一言が嬉しかった。

「……ありがとうございます。先輩」

 だって『必ず』なんて、絶対言いそうにない人がそう言ってくれたから。助けるって言ってくれたから。凪紗はその一言だけで全てが救われた気がした。

 思えば、この本から聞こえてきた【タスケテ】という言葉は、凪紗の心の奥底にあったたった一つの願いだったのかもしれない。

 足掻いて嘆いて、それでもままならなかった世界の中で凪紗は溺れてしまっていたから。誰かに掬い上げて欲しかった。

 日常という幸せを感じていたかった。たったそれだけのことだった。

 掬い上げてくれれば、陸の上であれば、ちゃんと立って歩けるから。


(だから、助けて欲しかった)


「……やっと言えました」


 凪紗はやっと心から笑うことができた。



     ✿



 魔女はどうして眠り姫を殺さなかったのか。

 どうして自分を愛してくれないのかと。

 淋しいと、助けて欲しいと泣き続けていたのだ。

 小さな子供のように。

 決して眠り姫を殺したかったわけではないのだ。



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