第四章 小さき黒魔女④
状況が変わったのは、中学三年の夏休みだった。
「海斗くん、おかえりなさい」
「凪紗、お前――!」
久し振りに帰省してきた兄は、凪紗の姿を見るなり荷物を取り落とした。額に汗を滲ませる兄の運転で凪紗は病院まで連れて行かれた。
その時にはもう、凪紗の病状はかなり進行していた。
「もう少し検査をしないと分からないらしいけど、『突発性過眠症』が疑われるらしい」
四人掛けのダイニングテーブルで、兄が両親にそう報告した。凪紗はその隣でただ俯くだけだった。
母は兄の報告を聞き、はっきりとそれが『失望』だと分かる溜息をこぼした。
「はあ……」
それを聞いて、凪紗は自分の世界がまたひとつ暗くなるような気がした。そのあとすぐに精密検査を受けて、病名が確定した。
母はまた大きな溜息を吐いた。溜息の度に一つ一つ凪紗の世界の灯を消されていくような、そんな心地がした。
その時だけじゃなかった。
凪紗は母の溜息を聞く度に自分の中の何かが擦り減り、静かに何かが消える音がした。部活動を運動部にしなかったとき。学校の成績表が返ってきたとき。模試の結果が返ってきたとき。朝が辛く遅刻し始めたとき。日中起きていられなくなったとき。学校から家に連絡がいったとき。兄と病院から帰ってきたとき。精密検査を受けたとき。そして、病名が確定した「今」。
その溜息を聞く度に。凪紗の中の沢山の灯が一つずつ消されていくのを感じていた。
――おまえは人を失望させる人間なんだ。
そういう風に、身体に、心に、刻まれるようだった。そうしていつの間にか、「当たり前な日常」と共に、凪紗にとって大事だった何かが無くなってしまっていた気がした。
凪紗はあのとき、両親と兄が何を話し合っていたのか全く覚えていない。だけどいつもは明るく軽口ばかりの兄が、とても怒っていたこと。父が罪悪感に満ちた顔をしていたこと。母が泣いていたこと。ただそれだけが目に焼き付いていた。
凪紗の病名が分かったその日の夜。階下で両親と兄が何かを言い争っている声が聴こえた。だけど凪紗は布団をかぶり、眠りについた。凪紗は何も聴こえないふりをした。見て見ぬふりをした。ただひたすらに嵐が過ぎ去るのを待つように。
ただ隠れて、心を閉ざして、記憶を閉ざした。
夏休みが終わると、兄は凪紗を心配しながらも父親に説得されて大学に戻って行った。凪紗はそんな状況でも、身体はそれを拒否したけれど、学校にも塾にも通い続け、勉強を続けていた。激しい眠気で集中力もない。効率的じゃない。だけど、せめて母の望む高校に受からないといけないと思った。悲しさとかそういうものではなく、ただそれが義務だと思った。
それは応えて当然で、それは応えないといけないもので、それが出来なければまた失望されるのだから。しかし当然、すぐに限界が来た。
まだ本格的に秋が始まる前だった。
「先生。志望校を変えろというのは、どういうことですか」
凪紗は職員室で担任教師の前に座っていた。
「あのなあ、白河。確かに今は三年の二学期が始まったばかりだ。だけど、白河の内申点じゃあそこの高校は受けられないぞ。病気だって言っていたが、遅刻が多すぎる。少なくとも病気が治らないと、受かったとしてもついていけないだろう。同じ私立だったらこの辺りはどうだ」
担任教師が見せてきたその学校は、凪紗の成績では受からない方がおかしい学校だ。ランクを一つ落とすどころではなかった。確かに模試の結果は少し悪かったけれど、それでも試験の点数だけなら、ギリギリ受かるはずだ。
(これまで私が努力してきたことはなんだったんだろう)
そう思うと眩暈がした。
(それに――私は期待に応えなきゃいけないのに)
世界がぐちゃぐちゃになったみたいに目が廻った。
(……期待って、誰の?)
その時、凪紗はまだ自分が感情を捨てきれていなかったことに、気が付いた。
「でも、私はここを受けないと……。病気も治るかもしれないですし……」
頭の痛みに顔が歪み、生理的に涙が滲む。
「そんな顔するなよ、白河。これじゃあまるで俺がお前を苛めているみたいじゃないか。俺だって本当はこんなこと言いたくないんだぞ」
「先生…挑戦するだけでも、してはいけないんですか……」
冷や汗が体温を急速に奪っていく。
(どうすればいい、どうすればいい、どうすれば……)
「そんな賭けみたいなことしてもお前のためにならないぞ。さっきも言ったが、白河の内申点じゃあ俺は今の志望校に推薦文は書けないからな」
目の前にいる人の顔がぼやけて歪んで輪郭さえ曖昧だった。
(……どうすればいい、どうすればいい、どうすれば、いい……?)
「……で、も、両親に相談しない、と――」
そして凪紗は倒れた。高校受験まであと五か月に迫っていた。
教師との進路面談の途中で気を失った凪紗が目覚めると、そこは精密検査を受けた病院のベッドの上だった。その夜、面会時間ギリギリに病院に来てくれた兄は「狭いけど、やっぱりうちに来るか」と言ってくれた。けれど、これ以上兄の負担になることは出来なかった。そして両親もそれを反対した。折角良い大学に入れた兄の邪魔を凪紗もしたくなかった。
母は最後まであの高校を受験して欲しかったみたいだったが、凪紗のいないところで話し合いが行われたようで、最後には諦めたそうだ。
凪紗が倒れた日からしばらく経ったある日。志望校のレベルを落とすと決めた後の最初の週末。
海外から戻ってきて家に居ることが多くなった父が、小さい頃に凪紗が行きたがったあの水族館に連れて行ってくれた。気分転換にと言ってくれた父の笑顔はぎこちなくて、あまり気分転換という風には見えなかったけれど、凪紗は黙って頷き、父の運転する車の助手席に乗った。
水族館の中を一通り見て回った後、最後に父の好きな海月の水槽の前まで戻った。横に立っていた父は無理矢理の笑顔を貼り付けていて、全く楽しくなさそうだった。
それでもずいぶんと長い時間、その水槽を、光を当てられながら漂うだけの海月を見ていたような気がした。
「お父さん、帰ろっか」
だから、凪紗からそう声を掛けた。しかし、父は違う言葉を返した。
「凪紗は海が好きだったよな。あったかい海が」
「…………うん」
「仕事にずっとかまけていたお父さんがこんな話を凪紗にするのは、間違っているのかもしれない」
父は溺れているみたいに苦しそうな顔でそう言った。
凪紗はその顔を久しぶりにまじまじと見つめた。暗いせいなのか、父の顔は記憶にあるよりも老けていた。父も一人の人間なんだなと思った。当たり前のことだけれど、そう思った。
「嫌ならそう言ってくれて構わない」
(自由な人だと思っていたけど、今はとても苦しそう。どうして――? そんなの、決まってる……私のせいだ)
「凪紗。――波雲のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行くか?」
揺らぐ水槽の光と共に、凪紗は静かに頷いた。
狭い水槽の中を漂う海月みたいに、流されるままに。
凪紗はあの日見た海月の代わりに、凪紗の心が創った世界の、青と橙を混ぜた空に浮かぶ雲を目で追った。
「――そして私は父の勧めで、波雲町に住む祖父母の家にお世話になることになりました」
凪紗が波雲町に来ることを決めた後、兄は凪紗に「力になれなくてごめん」と謝罪をした。兄が謝ることなんて、何もなかった。何一つとしてなかった。これは凪紗の、凪紗自身の問題で、他の誰が悪いことなんて何もない。兄は今でも罪悪感を感じているようだが、そんなものは感じる必要はない。
(――だって。病気になったのも。受験に挑戦することもなく失敗したことも。あの家にいることが出来なくなったのも)
凪紗は雲の浮かぶ空ではなく、名前に雲を持った目の前の人を見つめる。
「全部、私が悪いんですよ」
凪紗はそう言って、静かに笑って見せた。
「あまり時間がなさそうですね。ここからは歩きながら話しましょうか」
凪紗は夕暮れの空を見上げる。
「ああ」
二人並んで、再びあの城を目指す。凪紗にはタイムリミットが見えていた。きっとあの太陽が完全に落ちて、再び昇ったらこの世界は終わる。眠りの時間の終わりと共に、死がやってくるのだ。
(だってこの世界は私が創ったんだから)