第四章 小さき黒魔女③
凪紗は中学に上がるまで、健康で何不自由なく育った「普通」の女の子だった。
自由ではあるけれど仕事に真面目な父と、分かりやすく真面目な公務員の母。父に似て自由奔放だけれど、凪紗に甘い優しい兄の四人家族。両親とも仕事で家を空けることが多いけれど、家族仲は決して悪くない。凪紗が中学に上がる前までは時々家族旅行にも行っていた。どこかにそんな人たちが居そうな、なんてことのない一般家庭。
それを変えてしまったのは、凪紗自身だった。
それは中学二年の夏が訪れる少し前の出来事。凪紗はとある病気になった。
そうだと気付いたのはもう少し後だが、兆候はあった。
唐突に朝起きることが出来なくなった。
確かに元々朝に強いタイプではない。むしろ弱い方だ。だけど、あそこまでのしんどさはなかったはずだった。いくら寝ても眠気は無くならず、身体が重く感じた。そして遅刻ぎりぎりの日が段々と増えていった。授業を受けている日中も、夕方に通う塾の時間にも眠気が襲った。だから凪紗はいつもより早い時間に帰ってきていた母親に、こう漏らしたのだ。
「お母さん、最近朝起きるのが辛いの。沢山寝てるのに、昼間も眠くて」
「……寒いからじゃないの」
疲れた顔の母親に、凪紗はそれ以上何も言わなかった。困らせたい訳ではなかったから。
「うん……そうかも」
「早く寝なさい」
「はい、おやすみなさい」
この時はまだ日常生活に重大な支障はなかった。まだ抗うことができていた。だから凪紗もそんな時期もあるものなのだと思っていた。
凪紗は家でいつも一人だった。
写真だけでなくデザイン関係の仕事をしている父は、仕事でとても大事な時期だった。出張の日も多く、家にいても帰りが遅い日が多かった。凪紗はほとんど父親と顔を合わせることはなかった。公務員の母は真面目そのもので、仕事から帰ってきても会話と言えば進路の話ばかりだった。若い頃に苦労をしている母を凪紗は尊敬していたし、応援しようと思っていた。兄は、その年から既に大学進学で家を出ていた。進学先は実家から離れた土地で学生が簡単に帰って来られる距離ではなかった。
凪紗は塾がある日は家族分の夕食を作った後に、自分の分だけ掻き込んで塾に出かけた。そして夜遅くに塾から帰ってくる。遅くに帰ってきても、両親が居る日もあれば、居ない日もあった。両親のどちらとも揃うことは、滅多にないことだった。凪紗は所属していた調理部の活動がある日は部活に行き、部活で作った料理を持ち帰った。夕食が要らないと言われない日は、追加で家族分の夕食の準備をした。一人の夜は誰もいないリビングで一人きりで食事をし、勉強をし、一人で眠りについた。
寂しいとは一度も言わなかった。
木の葉が完全に季節の色に変わった中学二年の秋。凪紗は頻繁に遅刻をするようになった。
はじめは心配してくれていた周囲の人間も、次第に凪紗のことを「怠けている」と言うようになった。他校に不良の友達が出来たとか、男にうつつを抜かしているのではとか、そういうことを言う人間がいた。
全てただの噂だった。凪紗の茶色がかった髪を実は染めているのではと言い出す子もいた。そしてそれを聞いて、凪紗を呼び出す教師もいた。だが、凪紗の髪は元々その色だったし、それは父親譲りだと何度も聞かれてはそう答えた。他校の男の子と遊んでいると言われたときは、完全なる誤解だと答えた。わざわざ説明はしなかったが、凪紗は必要以上に男子と話すことはないし、勉強や家事でそんな時間はそもそも無かった。凪紗のことを良く知らない人たちから色々と言われることは、辛くもあったが、まだ耐えられた。辛かったのはそうじゃない人たちからの言葉だった。
「……凪紗ちゃんは変わっちゃったよね」
雪がちらつき、凪紗の遅刻が週に一度を越えた頃。一番の親友だった少女にはそう言われた。凪紗は違うとは言わなかった。言えなかった。彼女が私が変わってしまったことを祈るなら、そうあれば良い。
他人には表面上のことしか見えない。内側がどういう色をしていても、外から見た姿が全てだ。人の心の内側なんて、卵みたいに割って見ることなんて出来ないのだから。
白く染まりつつある景色の中で、凪紗はただ親友の背中を見送った。
「うまくいかないな……」
呟きは音を掻き消す白い綿雪が吸い込んで、凪紗は誰も居ない部屋で少しだけ泣いた。
だけど思った。
確かに自分は変わってしまったのだ、と。
そう自分に言い聞かせて、他者に何かを言われることを諦めた。
雪が積もる頃には、凪紗は家でも学校でも一人きりになっていた。教室でも部活でも塾でも凪紗はずっと一人だった。誰も居ないのならと、必要とされないのならと、夕食の準備も段々手を抜くようになった。
親友と決別したあの日を最後に、凪紗はたとえ一人きりでも涙を流すことはなくなった。
中学二年の冬休み。その年の年末年始は全国的に大雪に見舞われた。大学生の兄はアルバイトもあり、実家には帰省してこなかった。
「凪紗ちゃんだ。久し振りだね」
年末年始の準備のために買い物に出た帰り、家の近所で偶然出会ったのは、兄と同い年で幼馴染の綾瀬ちゃんだった。大学生になった彼女は以前よりも少し大人びて見えた。変わらず気安く接してくれる彼女に、凪紗はもう子供の頃のようには接することが出来ないと思った。
「綾瀬ちゃん、お久し振りです。大学はどうですか」
「一年生は授業が多いから少し大変だけど、結構楽しいよ。……そういえば海斗は帰ってきてないんだってね」
「こっちもあっちも大雪ですからね」
凪紗は道端に積もった雪を見る。そんな凪紗をじっと見てから、綾瀬ちゃんは真剣な声音で言った。
「……ねえ、凪紗ちゃん。……その……すごく、痩せた?」
心配そうな瞳が凪紗を見つめていた。凪紗は何故かそれを正面から見ていることが出来ず、真っ白な世界に視線を逸らし、分厚く巻いたマフラーで首元を隠した。
「……そうですか? 自分では良く分からないですけど」
「ねえ、凪紗ちゃん。……何か、あった?」
「別に何もないですよ。すみません、食材があるので、早く帰らないと……」
凪紗はそう言って、最後に一度だけ彼女の瞳を見ると、笑って彼女と別れた。の後には様子を伺うように兄から連絡がきたが、凪紗は「何もないよ」と笑って答えた。
気が付けば中学二年は終わりを迎え、春休みになっていた。
運転免許の講習とアルバイトで忙しい兄とは何度か電話やメッセージのやり取りはあったが、凪紗は「何もない。元気だ」とそう繰り返した。
その頃の凪紗は、何をする気力も失いつつあった。それでも母親から言われていた勉強だけはやめなかった。たとえ褒められることはなかったとしても。
誰かと会話をすること自体が億劫になった頃。凪紗は家でも学校でもほとんど言葉を発することはなくなった。会話する相手はたまに一緒に夕食を食べる母親だけだった。
「凪紗、あなたまた遅刻したんですってね。私のところに担任の先生から連絡が来たのよ。授業中の居眠りも多いみたいだし」
「……ごめんなさい」
「……はあ。謝るくらいならちゃんとして頂戴。今、仕事が大事なときなの。自分のことくらい自分で管理して頂戴。子供じゃないんだから」
「……はい。ごめんなさい。気を付けます」
そんなことが何度かあって、その度に機械的に謝罪の言葉だけを繰り返した。その度に凪紗は部屋に戻って、布団に入っては言い聞かせるように呪文を唱えた。救いのない呪文を。
(……しょうがない……私がちゃんとしていないのが悪いんだから。……しょうがない…しょうがないしょうがないしょうがないしょうがないしょうがないしょうがないしょうがないしょうがないしょうがない)
壊れた人形のように自分にそう言い聞かせた。凪紗は心を閉ざした。心を、感情を、殺した。
「……余計なものは全部なくさなくちゃ……。全部全部、なくさなくちゃ」
凪紗は感情を切り離すように、色々なものを手放した。
凪紗はその時、『眠り姫』の絵本を手放した。かつては毎日のように眺めて大切にしていたその絵本を、それを初めて手にしたあの日の想い出と共に手放した。その時の凪紗には、あの絵本を見ることすら出来なくなっていたから。
凪紗はあの絵本を手放すことで、大切にしていた想い出を一緒に手放そうとした。幸せだと感じた記憶と想いを捨ててしまえば、楽になれると思ったから。それでも捨てることはできず、古本として寄付に出したのはきっと凪紗の中の心残り故だったのだと今は思う。
凪紗はそのときも涙を流すことはなかった。
(涙を流すのは、子供がすることだから)