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第三章 追憶のいばら⑦


 漂うような心地で凪紗は再び目を覚ました。

 上下左右の感覚が薄く、身体が不自然に軽く感じた。その感覚に凪紗は自分の存在が不安定だということを直感した。なったことはないけれど、幽霊になったみたいな感覚だと思った。


 目を開いて見渡せば、そこが城の中だとすぐに気が付いた。それはあの眠り姫が眠っていた部屋に近い間取りの部屋だった。窓辺には花が飾られているが、部屋の中央には大きな天蓋付きのベッドが置かれ、その上には沢山のぬいぐるみが置かれていた。その部屋の主はまだ幼い女の子だということが分かった。

 ――たったったっ。

 軽い足音が響き、ピンク色のドレスを着た少女がテディベアを抱きかかえながら凪紗の目の前を通り過ぎていく。五歳か六歳くらいの少女の足音は、この部屋に居るもう一人の女性の足元で止まった。

「お母さま、お母さま」

「どうしたの、私の可愛い姫」

(やっぱり、この子は眠り姫なのね)

 母親である王妃に抱きしめられている眠り姫に少し近付いてその様子を観察するが、彼女たちは凪紗の存在に何の反応も示さない。思った通り、凪紗の姿は向こうには見えていないようだった。つまり今、凪紗はまさに幽霊のような状態なのだろう。

「あのね、お母さま。きょうはずっといっしょにいてほしいの」

「……ごめんなさい。今日は隣国の大使が来ているから、お母様もお父様も忙しいのよ」

「どうしてもだめなの?」

「……ごめんなさい」

「どうして! お母さまもお父さまもいつもそうだわ!」

 駄々をこねる可愛らしいお姫様。テディベアを抱きしめながら頬を膨らませる姿は、とても可愛らしい。しかし、彼女はその大きくつぶらな翡翠色の瞳から涙をぽろぽろ流している。そして、そんな愛らしい存在を、王妃が抱きしめた。

「ごめんなさいね。その代わりに今日の夜は一緒に眠りましょう」

「うん……やくそくね」

 親子の抱擁を眺めながら、凪紗は想いを馳せていた。


 眠り姫はどういう風に生きていたんだろう。

 私はどういう風に生きてきたんだっけ。

 凪紗は自分のことを思い出しながら、深く堕ちていった。



 溜息を聴いた。

「どうしてもだめなの?」

 瞳に涙を溜めた少女がそこにいた。

「ええ」「ああ」

 少女の前に立つ男女が順番に答える。

「……わかった」

 水色のワンピースを着た少女が俯きながらそう答えた。

(あれは、私だ)

 あれは小学校に入る直前だったと思う。どうしても水族館に行きたくて、連れて行ってくれると約束した日。だけど、両親ともに仕事で行けなくなったと言われたのだ。

 凪紗は少しだけ賢い子供だった。そして自分よりもずっと悟っていた兄を困らせたくなくて、凪紗は泣くことをやめて笑った。

「そっか、いいよ。もう、すいぞくかんにはいきたくなくなったから。おうちで本をよみたくなったから」

 泣いて喚けばいらない子になると幼いながらに思っていた。だから凪紗は我儘を言うことをやめた。笑って全てを受け入れることを決めた。これは凪紗が人前で泣くことをやめた日。

(忘れたつもりになっていたけれど。本当は忘れていなかったんだな、私)

 あの時どうしてもと望み続けて、求め続けていたら何かが変わっただろうか。今となってはもう遅いけれど。そういえば、小学校の遠足であの水族館に行ったことがあった気がする。そのときの私は、周りの子たちに合わせて笑っていたけれど、内心で「ああ、こんなものか」と思ったんだ。そうやって自分が期待していたものは、大したものではなかったと言い聞かせていたのだ。


(そうやって目を逸らして忘れたんだ)


 再び世界は黒く染まる。茨が再び現れて、凪紗は再び堕ちていく。引き摺り込んでいるのは茨自身なのに、茨は深く食い込んで、この先へ行くのを止めているような気がした。



 時間が早送りで進んでいく。今度の眠り姫は十歳前後くらいの姿になっていた。

「どうして。お城の皆は私のことを、可哀想だって言うの!?」

 眠り姫は怒りながら泣いていた。

「それは……」

 王妃は、泣きながら大声で叫ぶ娘に言葉を詰まらせた。

「……そろそろ、話をしても良い頃合いかもしれない」

 王様はそう言って、王妃の肩に手を乗せた。そして眠り姫を落ち着かせるように王様と王妃様は眠り姫をベッドに座らせ、ゆっくりと話を始めた。

「お前は呪いをかけられているんだ」

「……呪い?」

 眠り姫は彼女の両親を不思議な顔で見上げる。

「そうだ。あれは十年前のこと。お前の誕生を祝う宴の席でのことだった」

「悪い魔女があなたに呪いをかけたのよ」

「悪い魔女?」

 眠り姫は何も知らないようだった。

「十五歳の誕生日にあなたが糸車の針に指を刺し、死んでしまう呪いを」

「死ぬ……? 私が……?」

 その幼くとも綺麗な顔から薄紅の頬から血の気が引いていくのを見て、王様は安心させるようにその肩を抱いた。

「だが、善き魔女がその呪いを軽くしてくれたんだ。お前に残ったのは眠ってしまう呪いだ」

「眠りの呪い……?」

 眠り姫の瞳は揺れていた。

(当り前よね。それまで幸せに生きて来たんだもの。そんな呪いを受け入れられる訳がない)

 王様と王妃様は戸惑う眠り姫を強く抱きしめる。

「だが心配するな。お前が呪いにかからないように国中の糸車を燃やした。何の心配もない」

「そうよ。呪いなんてものに、私たちの愛しい姫は負けないわ」

 眠り姫は泣きながらその抱擁に答える。

「うん、私は呪いなんかに負けないわ。お父さまもお母さまも、それにお城のみんなも、国民の皆もいるんだもの」

 そんな希望に満ちた言葉と風景を、凪紗はただ黙って見つめていた。



 暗転の後、茨に攫われた凪紗の前に今度は真っ白な診察室が現れた。

(これは私の記憶だ)

「突発性……過眠症…ですか」

 凪紗の横で兄が戸惑いながら呟いた。

「ええ、もう少し詳しく調べないと分かりませんが、おそらくそれが妹さんの病名です。日中の激しい眠気。十分な睡眠時間を取った後でもすっきりしない。そういった症状が合致します」

「原因は……」

「この病気は現時点でまだ原因がはっきりしていません。対処法としては――」

 医者が語る言葉をただ黙って聞いていた。病室を出た後、兄が心配そうな顔でこう言った。

「凪紗。俺のところに来るか? 父さんと母さんには俺から――」

「……海斗くん、私は大丈夫だよ」

 凪紗はそう言って笑った。

(私、あんな顔して笑っていたんだ。あんな顔をして大丈夫だなんて良く言えたよね)

 顔色は悪くあからさまに引きつっている、最悪な笑顔だった。

(心配を掛けないようにして逆に心配を掛けていたんだね)

 自分が情けなかった。客観的に見ないと分からない自分が情けなかった。あんな顔を兄にさせた自分が許せなかった。

 舞台は再び暗転し、茨が凪紗を堕としていく。



 再び景色が鮮やかになる。城の中の同じ部屋のようだったが、内装が変わっていた。子供部屋から、少しだけ大人の女性の部屋にふさわしい内装に変わっていた。

「はあ。私も街に行ってみたいわ」

 今度の眠り姫は随分と大きくなっていた。きっとそれは長い眠りにつく間近の姿。金色の髪は豊かに波打ち、凪紗が立っている寝台の方からもその美しさが分かった。

「貴女は城の外に出ては駄目よ」

 窓の外を見る眠り姫に、後ろから声を掛けたのは王妃だった。王妃の方を振り返った翡翠の瞳に憂鬱さを映したその面立ちは、可愛らしくも美しく、優しそうなのに利発であることが分かるものだった。そんな美しい顔は、不満に歪む。

「どうしてなの、お母様」

「外はとても危険なのよ」

「でも、私は外の世界を見てみたいのよ! 私だってこの国の王女よ。いずれはこの国を治めるのよ! それなのに市井のことも知らないで城に籠っているなんて!」

 眠り姫は王妃の方に歩を進めるが、王妃は一歩も引かなかった。

「前にも話したでしょう。貴女は悪い魔女に呪われたのよ。せめて十五歳の誕生日が過ぎてからにしましょう」

「そんなの、気を付ければいいだけじゃない! ただ糸車に触れなければ良いだけでしょう!」

「……とにかく許しません! 貴女のためを思って言っているのよ!」

「私のため……? それは、私自身が決めることだわ!」

「これは国王命令であり、王妃命令でもあります! 後継者の命を守ることは国の存続を守ること! 王女であるならば、それをいい加減理解なさい!」

 王妃様はそう言い残すと部屋を出て行った。眠り姫はベッドに顔をうずめ、泣き続けていた。

(あんなに愛されている眠り姫でも思い通りにならないことがあったんだ。こんな風に泣くことがあったんだ)



 凪紗は彼女を少しだけ哀れに思った。そして景色がぐるりと廻った。

 城の一番高い場所。そこに糸車があった。

「……どうして」

 呟く眠り姫の宝石のような瞳に影が差すと、まるで感情が抜け落ちたようだった。眠り姫はおぼつかない足取りで糸車に向かっていくのを見ながら、それはも(・)う(・)眠り姫ではないと感じた。

(呪いの影響を受けているの……?)

 眠り姫は誘われるように、糸車の針に指を伸ばす。針は指先の皮膚はぷつりと裂かれ、そこから血の赤玉が膨らんだ。


 それは逃れられない呪いだった。

 そうして眠り姫は長い眠りについたのだ。

 それが物語の運命だった。

 生まれて間もなく、呪われた少女。愛されているのに自由のないお姫様。

 そんな少女の眠りと共に最後の善き魔女の魔法によって城中が時を止めた。


 茨が城と城下町を覆っていく。

 そして善き魔女は最後に眠り姫を魔法で彼女の部屋に運んだ。

 長い眠りの中でも、なるべく心地良く眠れるように。



 凪紗は呪われていてもなお祝福を受けた少女の傍らに立つとその姿を見下ろした。自分の影がベッドで眠る美しい姫君の顔を黒く染める。

「……あなたは結局救われるんだから、良いじゃない」

 自分が落としたその言葉と一緒に、凪紗の心も黒く染まった気がした。

(……違う)

 黒く染まっていることを今、認めたのだ。

「これはきっと、運命なんですね。歌雲先輩」

 凪紗は自分が堕ちて来たことを認めるように、天井を仰ぎ見た。

「だって私はきっと悪い魔女だから」

 凪紗は自嘲気味に笑った。

 堕ちきった凪紗の手元には、真っ黒に塗り潰された絵本の頁が残された。


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