第一章 桜の花は夢の終わりを告げる①
はじまりは幼い頃に祖父としたひとつの約束だった。
「紡、『書守』というのは書物を守るだけじゃないんだよ」
「ではほかになにを守るのでしょうか」
「人の想いだよ」
「おもいですか」
「そうだよ。そのために昔、神様が私たちのご先祖様にその力を分けて下さったんだ。紡は優しい子だから、書物も想いも守れるな」
「はい。おじいさま」
それから、そんな小さな約束をいくつも重ねてきた。忘れてしまった約束も、忘れられてしまった約束もいくつもあるけれど。そんな約束が頁を重ねるように、今の歌雲紡を形作っている。
そうして紡は、書守になった。
一片の桜の花弁が、手の甲に舞い降りた。桜の幹に背を預け、紡はうたた寝をしていた。肌をくすぐる感触で目を覚まし、先程まで見ていた夢を思い出す。
(随分と懐かしい夢だったな)
満開の時を迎えた一本の桜の樹は紡が通う高校の古い図書館裏に在り、傍らには赤い鳥居と小さな祠が置かれていた。血を薄めたような薄紅の花弁は、春風に揺らされては初雪のようにゆったりと地面に落ちていく。紡はその光景を眺めながら、膝の上にある【穢れ】を纏った本の表紙に手を伸ばした。
その時、紡の中を流れる『書守の血』がさざ波のように揺れた。
何かが起こったことを知らせるその感覚は、不快感というよりも、どこか懐かしさを感じさせた。
まるで誰かとの再会を喜ぶような。
「綺麗……」
書守の力を持つ者以外は立ち入れない場所に、少女の声が落とされた。
紡は樹の向こう側に居る気配を探り、僅かに振り返る。桜の樹から少し離れた場所に立っていたのは、春の青空のようなワンピースを着た、中学生くらいの少女だった。
(【人祓い】の術は……破られていない。……まさか、すり抜けて来たのか)
少女はこちらに気付いた気配もなく、魅入られたように桜とその花弁を見つめ、吸い寄せられるようにこちらに近付いてきた。
「桜の精でも住んでいそう……」
少女が一歩踏み出した時、紡の手にある本から『種』の気配が色濃く漂った。風にさらわれた髪を耳に掛けていた少女の肩が大きく傾ぎ、その顔色は青白く染まる。
(――――なんだ?)
膝の上の本に視線を向けると、苦しそうな少女の声が背中から聴こえてきた。
「……な…に……?」
芽吹くような『種』の気配をさせている本は、自身の存在を主張し、まるで見つけて欲しいとでも言っているようだった。
(……仕方がない。このまま浄化するか)
紡はほとんど音にならない声で祝詞を唱え始める。声と共に絞った力に合わせ、いつもより小さく発動する黄金の陣は、本を中心に小さく浮かび上がった。
【書守の神よ かしこみ申す】
【対価を捧げ紡ぐ歌 神を喰むモノ 穢すモノ】
【我が雲の血濁し 清めたまえ】
黄金の陣からは清澄な光の粒が生まれていき、本の中に浸み込むように吸い込まれていった。祝詞が終わり、黄金の光はシャボン玉が弾けるように霧散した。紡は本を開き、【穢れ】の気配が完全に消えたことを確認する。そしてそれを腿の上に置いたまま、樹の周りをうろうろとし始めた少女に声を掛けた。
「……気が散る。用が無いなら立ち去って欲しい」
「――はいっ!」
飛び上がりながら返事をした少女は、こちらの姿を認めると、時を止められたようにこちらを見つめていた。その茶色がかった瞳が、やがて溶けるように動き始めた。こちらの観察をし始めたその瞳を見つめ返しながら、紡の心は警戒の音を鳴らしていた。
「……いつまで人のことをじろじろ見ているつもりだ」
早く立ち去れという意思を込めて少女を見ると、少女は勢い良く頭を下げる。
「すみません! すぐに立ち去ります!」
裏庭の出口に向けて逃げていく少女の背中を、紡は最後まで見届ける。
「……なんだったんだ」
桜の花弁がはらりはらりと目の前を落ちていく。それが地面に落ちきる前に掬い取ろうと手を伸ばすが、それはあっけなく指をすり抜けた。立ち上がってその欠片を見下ろすと、いつもと変わらない日常に戻るため、目の前に建つ図書館へと入っていった。




