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第三章 追憶のいばら⑥


「くそっ。駄目だったか」

 綺麗な顔に似合わない乱暴な言葉だと思いながら、眩しさに閉じていた目を開く。

「ここは……」

 凪紗はほとんど寝転んだ状態で辺りを見回すと、そこは先程までいた城の中ではないことが分かった。辺り一面が茨に覆われていた。どこかで見た景色だ。

「歌雲先輩、どういうことですか。何があったのか分かりますか」

 見上げながら尋ねる自分の声が、いやに落ち着いているなと思った。

「……元の場所に戻された」

「つまり、振り出しに戻ったということでしょうか」

「そういうことだ」

「そうですか」

 凪紗は現実に対して何の感情もないような自分の声を冷静に聞いていた。

(自分のことを俯瞰で見ているような不思議な気分。いつからだろう。自分のことをひどく他人事に思うようになったのは……そっか。この絵本を手放した時からか)

 凪紗はふと違和感がして包帯が巻かれていない左手を見る。向こう側が透けて見えた。

「……透けてます」

 凪紗が淡々と告げると、歌雲先輩は凪紗の座っているすぐそばに片膝をついて言った。歌雲先輩が凪紗の左手に一瞬触れると、どういうわけか、左手は元の肌の色を取り戻していた。

「もうあまり時間がないみたいだな」

「……時間、ですか」

 どうやら、この物語には時間制限があるようだ。

(眠り姫にも百年という時間制限があったんだから、そういう要素があってもおかしくないか)

「そうですよね。夢だっていつか終わるんだから」

 声は笑っているのに、とても寒々しいと自分で思った。自分のことを取り繕えなくなっていると感じた。そんな自分を誤魔化すように土を払い、立ち上がる。歌雲先輩もその後に続いた。

「それじゃあ……最期の挑戦でもしますか」

 凪紗は再びあの城のある方向を見据えて笑った。その瞬間、肩に強い衝撃が走った。

「――な…んですか……」

 歌雲先輩が凪紗の両肩を掴んでいた。すぐ背後に茨の壁が迫っているのを肌で感じた。

「白河凪紗。この本はお前の心を見抜いているぞ!」

 少し乱暴なその手は、凪紗の心も揺さぶった。

「白河凪紗。自分の心と向き合え。……過去と向き合え!」

 歌雲先輩は斬るように言った後、もう一度口を開いた。

「…………消えたくなければな」

 自分の足元に、真っ黒で大きな穴が開いた気がした。あるいは断崖。掴まれた肩を見つめた後、凪紗は顔を上げた。

「――もう、逃げられないんですね」

 凪紗は泣くように笑った。包帯の巻かれた右手で左肩に乗ったその手にそっと触れ、その長く細い指をそっと外側に滑らせた。それを合図に掴まれたときの乱暴さは噓のように優しく、その両手が離れていった。

「……歌雲先輩。この間、帰り道で私が先輩に沢山質問をしたことを覚えていますか」

「……ああ」

 関係のない話を唐突に始める凪紗を歌雲先輩は止めない。

「私、先輩のことが怖いんです。私に優しくなくて安心するのも本当。だけど、それ以上に怖いんです」

 安心と恐怖。それは相反するものだ。だけど、表裏一体でもある。

「怖い……か」

「ねえ。先輩の怖いものってなんですか」

「そんなもの、無い」

「先輩は嘘つきですね。そんな人間、いるわけ……ないじゃないですか」

 凪紗は震える声で笑う。反対に、凪紗の前に立つ彼の声には芯が通っている。

「怖いものなんて無い。君に聞かせる答えを俺は持ち合わせていない」

 この人にも怖いものがあるのだと悟った。凪紗に聞かせられないだけで。

「先輩は、強いんですね。私にはそんなこと言えない。上辺だけの答えしか用意できない。だけど、一つだけ正直に言えることは、私は『人にがっかりされること』が怖いんです。死んでしまうことよりも、消えてしまうことよりも、ずっと。……ずっと怖い」


 本当は分かっていた。柴崎くんが私を写真部に誘おうとしていたことを分かっていた。それを気付かないふりをして、あしらって、がっかりさせた。自分が拒絶したのに、がっかりさせたのは自分なのに。苦しいと思う自分が嫌い。

 凪紗は人と関わることが怖かった。だからなるべく人を遠ざけた。自分には関係のないことだと壁を作った。それでも周囲から浮くことだけは恐れた。だから関わる人のことはなるべく知っておきたい。何があっても対処ができるように。がっかりされないように。


「怖いのは、知らないからだと思って。だから先輩のことを少しでも知れば、怖いのが少しでも無くなるのかなあって思ったんです」

 知るために、沢山のことを聞いた。それだけで彼のすべてが分かるはずもないけれど。あんな問答は気休めだと分かっていたけれど。

(人の心は見えないところにあるって、私は良く知ってじゃない)

「私が先輩のことを怖いと感じるのは、私に原因があるってちゃんと分かっているんです」

 凪紗はいつも、たくさんのことから目を背けてきた。

「先輩が私のこと、見抜いている気がして――」

 凪紗は目の前の真っ黒な瞳を見つめる。

「私が、何も見ないようにしていることを見抜かれている気がして――とても怖かった」

 凪紗は自分の本性を誰にも見抜かれたくなかった。


「……私は逃げてきたんです。波雲(あの)町に」


 思えば、凪紗はいつもいつも逃げていた。凪紗はいつもいつだって目を逸らしていた。


「前に居た場所でうまく行かなくて。全部全部どうでも良くなって。最後には全部全部諦めて。私は流されるままに波雲町に来たんですよ」

 ずっと本当の気持ちを言えずにいた。それでよかった。逃げるが勝ちだって、誰かが言っていた。だけど――。


「先輩。私はどう足掻いても、一番肝心なところで逃げることが赦されない運命なんですね」

 瞳に映るのは、「絶望」ではなく「諦念」だった。

「――もう、逃げられないんですね。私」

 刻むように言ったその心の背後には、断崖の淵が迫っていた。早くここまで落ちてこいと言うように荒ぶる黒い海の幻がそこに見えた。



     ✿



 凪紗は再び断頭台に押し上げられた。

 跪き、その首を目の前の人に捧げる。

「強制的にこじ開ける。苦しいだろうが、覚悟しろ」

 最初に浄化をしようとしていた時と同じように、額に歌雲先輩の指が触れた。

「目を閉じて意識を集中しろ。そうすれば、この本は君の意志に従う。俺が入口まではこじ開けるから、君が自分で『想い』を取り戻せ。…………壊れるなよ」

 それは祈りのようだと思った。お願いだから壊れてくれるなよと聞こえた気がした。凪紗は目を閉じたまま頷いた。

【書守の神よ かしこみ申す】

 祝詞が始まると凪紗は更に固く瞼を閉じ、深呼吸をして意識を集中する。

【記憶の鍵穴 開きたもうて】

【其の主を 導きたまえ】

 黄金の光が瞼の向こう側で揺らぐのを感じる。それは失敗したあの時と同じ揺らぎ。だけど今度は抗わないと強く思う。それでも黄金は揺らぎ続ける。凪紗はきつく瞳を閉じ、扉を力強く押すイメージをした。そんな凪紗に呼応するように、強い意志を宿す声が響いた。

【 ――開け! 】

 黄金の光は強く光り、残り火も残さず、その声の主の瞳と同じ漆黒に変わった。重い扉は押し開かれ、凪紗はそこに一歩足を踏み入れる。途端に凪紗の足元が地面にずぶりと沈み、周囲の茨が凪紗の身体に巻き付くのを感じた。不思議とそれは痛くなかった。だから凪紗は気付いてしまった。

(嗚呼、そうか。この『茨』は私なんだ。自分を守るために虚勢を張って他者を傷付ける茨は、私自身の心なんだ。その姿の本当も知らずに、ただ怖がるだけの茨なんだ)

 そう認めると、地面に開いた真っ黒な穴の中に引き摺り込まれていった。それはまるで水の中に引き摺り込まれるような感覚だった。息が苦しいと感じたが、それは長くは続かなかった。意識が切れるその直前、真っ黒な瞳でこちらを見下ろす歌雲先輩と目が合った気がした。


 そして白河凪紗は、歌雲紡の前から再び姿を消した。


(――私が知っているこの『眠り姫』の物語はどういう物語だっただろうか)


 私はどうしてこの本を手放したの。

 それはきっと、この物語に傷付いたから。

 なら私はどうしてこの物語に傷付いたの。

 どうしてこの本に『染み』を作ったの。


(どうして私の想いはこの本を『カミカクシ』にしてしまったのだろうか)


 たぶん、それを知ることが、向き合うことが、答えなんだと思った。



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