第三章 追憶のいばら④
――物語を進めろ。
凪紗は歩きながらずっと先程の歌雲先輩の言葉を心の中で反芻していた。
(物語を進めるってつまり。眠り姫の物語を追いかけるってことだよね)
理屈は分からないが、この物語を正しく終わらせることが帰還に必要なことらしい。
「……先輩は、あの絵本を読みましたか」
凪紗は茨をかき分けながら歌雲先輩に問い掛けた。
「ああ。だが、なぜか読めない頁があった。おそらく肝心な部分がな。それで正攻法では浄化が出来なかったんだと俺は考えている」
歌雲先輩の言葉に凪紗は振り返る。
「どういうことですか」
「ページ同士が貼り付いていたり、黒く塗りつぶされていた頁があった」
確かに凪紗の名前を黒く塗り潰したのは凪紗だが、それ以外は記憶にない。凪紗が手放した後にそうなったのだろうか。
「……そうですか。それじゃあ思い出さないといけませんね」
「待て。君は本当にこの本の内容を知らないのか」
「さっきも言ったじゃないですか。確かに知ってい(・)ま(・)し(・)た(・)よ。だけどそれは昔のことなんです。今はもう全部は思い出せません。あの絵本は、もう手放したものなので。それが今どうしてあの図書館に流れ着いたのかも私には分からないんです」
藤原さんに汚れを落として欲しいと言われたときも、凪紗はあの絵本を直視しなかった。いや、出来なかった。酷い悪寒と頭痛に襲われたから。その後で本格的に手入れをするという話だったから、申し訳なく思いながらも軽く拭いた程度だった。だから途中の頁の状態も、抜け落ちがあるのかも正直分からない。
「……そうか」
僅かな沈黙の後、想像よりすんなりと凪紗の答えが受け入れられ、少しだけ面を食らった。
「でもまあ、思い出す努力はしてみますよ。幸いにも道程はまだまだ長そうですからね」
凪紗はもう一度、遠くに見える城を見据えた。
「それじゃあ、覚えている限りの答え合わせでもしながら進みましょうか」
あの『眠り姫』は作者不詳で、良く聞く眠り姫とは少しだけ話が違っていたことは記憶している。だけど大筋は同じだったはずだ。凪紗は茨の隙間を探しながら頭の中であの絵本の物語を思い出す。世の中に知られている眠り姫の物語と混ざって記憶されている部分もあるかもしれないけれど。
「あれは、こんな物語だったかと思います――」
凪紗は棘を避けるように茨に触れ、道を進んだ。
✿
――とある国にそれは美しく心優しいお姫様がいました。
とある国の王様とお妃様の間に姫君が生まれた。
その生誕の祝いの宴はとても華やかで、普段はひっそりと暮らしている魔女でさえも、姫の誕生に祝福を授けに城までやってきた。
生まれたばかりの姫は、招かれた十二人の善き魔女に祝福を授けられることになる。それは美しさや富、恵まれた才能や美しい心。生まれた瞬間に将来を約束され、祝福されたように思われたお姫様。
しかし、姫は宴への招待を受けなかった十三人目の魔女から呪いを受けてしまう。その呪いは時限式の呪いだった。十五歳の誕生日に姫が糸車の針に指を刺して死んでしまうという呪いだった。祝いの席は瞬く間に悲しみと絶望に包まれていく。
しかし、幸いにもまだ善き魔女の祝福が三人分残されていた。
一人の善き魔女は呪いの力を弱めて死の呪いではなく、眠ってしまう呪いへと変える祝福を授けた。ただし、期限は百年の時間。
もう一人の善き魔女は、姫を心から愛する者の口付けでその呪いが解けるように祝福を授けた。ただし、それは姫の家族を除外した他国の人間に限られる。
最後の善き魔女は、最後の祝福を十五年後に授けることを誓い、遠くの地へと去っていった。悪い魔女に捕まってしまわないように――。
王様と王妃様はなんとか呪いを回避できればと国中の糸車を焼いてしまう。しかし、それでも呪いを回避することは出来なかった。
姫の十五歳の誕生日。姫は呪いの通りに糸車の針を指に刺して長い眠りについてしまう。そうして姫は『眠り姫』になった。
最後の祝福を残していた最後の善き魔女は、眠り姫の時間と共に城と城下町の人々の時間を止めた。
試練を乗り越えられる者だけが辿り着けるように城を茨の檻に閉じ込めて。
そして時間は流れ、運命の時が訪れる。もうまもなく百年が経とうという時、旅に出ていたとある国の王子が近くを通りかかる。
茨に覆われてしまったお城を乗り越えて、ついに王子様はお姫様の下へと辿り着きます――。
✿
凪紗はここまで語ると足を止めた。
(嗚呼。本当に子供が好きな都合の良い話)
現実を知っていく程にとても残酷に感じ、それでいてとても美しい物語。眠り姫には悲しいほどに幸福な結末が待っているのだ。そして、その舞台となる城まではもう間もなくだ。今はそのほとんどが茨に覆われているが。
「……すみません。私にはこの先の物語を思い出すことができません。今お話した分も正直曖昧なところがあります」
凪紗は歌雲先輩を振り返り謝罪する。
「いや、意外と覚えているな。俺が読めた部分とそう大きな違いはなさそうだ。それに、結末は俺も読めなかった」
「そうですか。それじゃあ、本格的に思い出さないとですね」
凪紗は目の前にある太い蔓に手を伸ばす。鋭い棘が伸びた蔓に。しかし、伸ばした手は後ろから延びてきた大きな手に阻まれた。その手に握られている術符が赤く光り、燃えるように蔓が赤く光って塵となった。
「そのお札は数が少ないって言っていたのに……」
凪紗は硝子の破片のように砕ける蔓を見て、すぐ横にある顔を見上げた。
「いや、もうゴールもそこまで遠くないはずだ。あの城の中には茨は無いはずだからな」
「そう、ですね」
凪紗は目を伏せる。あの絵本の終盤。凪紗が思い出せる最後の場面。あの王子様が城に入った場面の絵では城の中に茨は無かった、と思う。この絵本の物語がよく聞く『眠り姫』の物語の通りならば、王子様があの綺麗なお城に辿り着いて、眠り姫が目を覚ましたのならば。きっとこの物語は終わる――。
物思いに耽っていると、凪紗の肩越しに伸ばされていた腕が引っ込められた。
「君がこの物語の結末を思い出せないのは、おそらくこの本がそれを隠したがっているからだ。君をこの世界から逃がさないように」
凪紗は先程の話を続ける歌雲先輩の顔を見つめる。そして笑った。
「私の命が、この本の穢れを浄化するのに必要だからですね」
「ああ。……カミカクシはその主を自身の世界に取り込み、逃がさないようにする」
(そこに善悪感情はなく、それはただの「自然の摂理」なのだと歌雲先輩は言っていた)
目の前の美しい人は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「……別に先輩が悪いわけじゃないでしょう」
凪紗は誰にも聴こえない小さな声で呟き、スカートを翻すように振り返った。
そして有名なあのシーンを口にする。
「――『眠り姫』と言えば、王子様からのキスで目覚めるという結末が有名ですよね」
凪紗は目の前にある真っ黒な瞳を見つめる。
とてもとても長い眠りについた眠り姫。時間と共に目が覚めるという眠り姫の物語もあるが、他者がその呪いを解く方法はただひとつ。そう――口付けだ。
「ねえ、先輩」
「なんだ」
「歌雲先輩は私が悪い魔女の呪いに罹って、長い眠りについてしまったとしたらどうしますか」
「そんな仮定に何の意味もない」
この冷たいようで優しい返事はきっと正解。だけど、凪紗はその先にある答えを求めていた。この人が私を助けてくれる理由は何なのだろうか。嫌いな相手のために、彼が動く原動力はなんなのだろうか。黒い好奇心が疼いた。
「じゃあ、起こさないと世界が滅びると言われたら? 起こす方法は口付けをすることだと魔女に言われたら?」
凪紗はその真っ黒で真っ直ぐな瞳をじっと見つめる。
「……先輩は私に口付けをすることができますか」
「…………この状況で、何ふざけたことを言っているんだ」
その声音は確かに怒りだった。
(知っている。これは馬鹿げた仮定だ)
王子様は眠り姫が美しいお姫様だったから、口付けをして起こしたのだ。美しいお姫様だったから愛したのだ。王子様にかなりの打算が混ざっていると気が付いたのは少しだけ大人になってからだった。
「先輩は、私に……キスできますか」
自分の問いがふざけた問いだと分かっていて、それでも凪紗は目を逸らさずに繰り返した。目の前にある制服の上着とその下にある白いシャツに手を伸ばし、それを両手で握りしめた。その手に歌雲先輩の体温を感じた。しかし、凪紗が期待するイエスかノーかの答えは得られなかった。代わりに得たものは。
「……黙れ」
とても不機嫌な眼差し。それよりも侮蔑を含んだ睨みと低音。凪紗は掴んでいたシャツを手放して彼から距離を取り、わざとらしい怯えのポーズをとる。
「すごまれた……先輩私のこと女子だと思ってないですよね?」
「元気そうだな? 白河凪紗」
「おかげさまで……。それに、先輩がただの義務で動く、仕事中毒者だということが分かりました! って……いたたたた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃー」
(また頭部を鷲掴みにされた……!)
だが、おかげで凪紗の中で湧き上がっていた黒い感情は落ち着き、冷静になっていた。
(それにしても先輩とキスか……)
凪紗は目の前にある顔をまじまじと見つめる。
(歌雲先輩は綺麗な顔をしているし。王子様っぽくは確かにあるのかもしれない。唇の形も整っているし、薄くて、でも柔らかそうで――)
「――っ!」
凪紗は自分自身の感情に悶え、勢い良く顔を降ろして地面を見つめた。
(破廉恥――! ……私はこの状況で一体何を考えているのよ! というか、私は年頃の乙女なのに、一体何を先輩に聞いたというの!?)
凪紗は自分が口走った言葉に今更ながら赤面し、――両頬を思い切り叩いた。高音と共に、唐突に両頬を叩く凪紗を、歌雲先輩は珍獣を見るような目で見ているのが、視界の端に映った。凪紗は涙目になりながら、罪の無い男を睨み上げた。
「先輩の馬鹿~~~!」
凪紗は十五年の人生の中で、いまだかつてない程の大声で叫んでいた。