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第三章 追憶のいばら③


「これから浄化をする。そうしたら、全てが終わる」

 歌雲先輩は内ポケットにしまっていた札のようなものを取り出し、凪紗にその場に座わるように促した。

 凪紗は死刑台に首を差し出すように、あるいは懺悔するように地面に膝をつく。凪紗の額に歌雲先輩の人差し指が触れ、それに抗わずにそっと目を閉じた。触れられた額がじんわりと温かく感じ、瞼の向こう側で何かが光るように金色に染まり始めた。


【書守の神よ かしこみ申す】


 歌雲先輩は祝詞を紡ぎ出す。

(身体の中から、ううん、もっと奥深くから、何かが引き摺り出される感じ……)

 それはとても黒くて醜いもの。何かが奥底から溢れ出す気配がした。器から真っ黒な泥のようなものが溢れ出す気配が。


【対価を捧げ紡ぐ歌 神を喰むモノ 穢すモノ】


(そう。これはきっと、この本を穢している私の心だ)


【我が雲の血濁し 清めたまえ】


(触れられている場所から、光が流れ込んでくるみたい。これで全部、終わるの……?)

 黒で穢れた器が黄金の光で包まれようとしたその時。


(――――やめて!)


 凪紗は心の中でそう叫んでいた。それは無意識で、凪紗は弾かれるように閉じていた瞼を勢い良く開く。その瞬間、凪紗たちの周囲に浮かんでいる黄金の光の粒は膨らみ、そして弾けた。シャボン玉が割れるように霧散した光はもうどこにもない。代わりに光が包んでいた黒い霧が周囲を満たし、一瞬にして逆流するように凪紗の中に押し戻された。

「――ううっ!」

 凪紗はその苦しさに胸を抑える。苦しいのになぜか凪紗はその苦しさにほっとしていた。凪紗は胸を押さえてむせながら、歌雲先輩を見上げる。

「せん、ぱい?」

 歌雲先輩は目を見張り、訝しげにその光が消えた場所を見つめていた。

「……どういうことだ。君は……一体?」

 状況を掴み切れていない凪紗にも、何かが失敗したんだと分かった。凪紗よりも歌雲先輩の方が動揺しているようだった。

「えーっと、歌雲先輩。どうしましょうか」

 だから、凪紗は笑った。自分でも気付かないうちに、握る拳に力を込めながら。

 歌雲先輩は僅かな沈黙の後、こちらを真っ直ぐに見て言った。

「白河凪紗。――物語を前に進めろ」

 それは強い言葉と強い視線だった。歌雲先輩は凪紗に対してぶっきらぼうな物言いをするし、決して威圧的ではない。だけど、これはたぶんそういう類の気配だ。無駄に整った顔の人間がこういう雰囲気を醸すと、妙に圧を感じる。だから凪紗は思わず息を呑んだ。

「物語を進める……とは、具体的にどうすれば良いんですか」

 だけど凪紗はそんな考えを悟らせないように、自分の心に鞭を打って冷静に尋ねた。

「言葉通りの意味だ。お前の手で物語を終局(エンディング)まで導け。お前はこの物語を良く知っているんだろう」

(歌雲先輩に「お前」と言われるのは初めてかもしれないな)

「……そうだったのは、昔のことですよ」

(私はあの『眠り姫』の物語を鮮明には思い出せない)

「いいや、違う。忘れているだけだ。思い出せ。正しく咲かせて、浄化するために」

「無茶、言いますね」

 凪紗は苦笑いしてみせる。

「物語を進めろ。それがここを出るための条件だ」

 いつもよりも有無を言わさない声音は、真剣そのものだった。

「……死にたくなければな」

 それはやけに重い言葉だった。

(私が先輩のことを、死神だなんて言ったからかな)

 凪紗は朝焼けの空を仰いでから、視線を戻した。

「分かりました。分かりましたよ、先輩」

 ただそれだけを答えた。だけど、その言葉に何の覚悟も込められていなくて。そこにあるのは諦めだった。凪紗は、本当は何も分かってなどいなかった。


「……進む前にとりあえず、それを何とかするぞ」

「それ?」

 向けられている視線の先を追い、自身の手が血で真っ赤に染まっていることを思い出す。

「意味、ありますかね。たぶんこの道を進むなら、こんな傷、またすぐにできちゃいますよ」

 淡々とこちらを観察する歌雲先輩に、血の流れていない左手の掌を目の前の道に向ける。凪紗には自分が進むべき道が何となく分かっていた。

 眠り姫の物語を進めるのであれば、茨に覆われた城に向かうのが当然だろう。そしてその道中は、凶悪な茨に覆われている。人が通れる隙間くらいはありそうだが、それは僅かだ。この道を往くのなら、いずれにしても傷だらけになるだろう。

「気にするな。それについてはある程度対処する」

 歌雲先輩の言葉に凪紗は首を傾げる。

「対処、できるんですか」

「まあな。だがあまり期待はし過ぎるなとだけ言っておく」

 そう言うと、歌雲先輩は凪紗の血だらけの手を奪うように掴んだ。

「な、なんですか」

「何とかすると言っただろう。治療するから大人しくしていろ」

 歌雲先輩はどこからともなく治療用の薬や包帯を取り出していて、手際よく凪紗に手当を施し始めていた。凪紗はその手の感触のくすぐったさに、思わず目を瞑っていた。

(どうしてそんなに優しい手で、私の傷を拭うの?)

 凪紗の問いは、俯いた先にある地面に消えた。その手を黙って委ねることしかできなかった。

「一つ聞いて良いか」

「……なんでしょうか」

「君はこの絵本を嫌がっていたよな。藤原さんに手入れを頼まれた時だ。……どうしてだ」

 凪紗は手当されていく右手を見つめながら考える。

(歌雲先輩の前で、この絵本を触ったり見たりしたことがあったっけ)

 疑問は浮かぶが歌雲先輩が書守という特別な存在なら、もしかしたらあの絵本のことを監視か何かしていたのかもしれない。そんな気がした。

「そうですね……嫌な感じがしたんです。黒い靄がこの本を覆っているような、そんなとても嫌な感じが」

「嫌な感じ、か」

 凪紗の言葉を確かめるように繰り返す歌雲先輩の額を見つめた。

「すみません。うまく説明できないのですが」

 歌雲先輩は何を考えているか分からない顔で治療を続けている。凪紗はそれを眺めながらふと思い出したことがあった。

「あとは、声を聞いたんです」

「声?」

 歌雲先輩が今度は顔を上げたため、目と目が合った。しかし、凪紗はそれをすぐに逸らした。

「とても嫌な声です。すごくすごく嫌な声です。とても怖くて寒くて苦しい。そんな声が」

 凪紗は思い出しながらそう呟く。

「私にずっと、【タスケテ】って言ってくるんです」

 凪紗の言葉に、歌雲先輩は何か考え込む。やはり人形みたいに綺麗な顔だと思い、そこでふと思い出される情景があった。

「そういえば、あの時は気のせいだと思っていたんですけど、歌雲先輩と初めて会った時、あの桜の樹の下でも同じような声を聞きました。……ううん、違う。違う声でした。でも、そうやって助けを求める声が聴こえたんです。あの時も頭がすごく痛くなって。でもその後すぐにそれが消えて。それで歌雲先輩に話しかけられて……」

 凪紗はあの桜の樹の下での出来事を辿る。

(どうして気のせいだなんて思ったんだろう。あ(・)れ(・)はそんなのじゃなかった)

 凪紗が考え込む。しかし、それはすぐに遮られた。

「…………分かった。十分だ。君は、そういうのに敏感なんだろう」

 歌雲先輩が口にしたのは、やけに曖昧で言い訳にも聞こえる言葉だった。

 歌雲先輩は凪紗の右手に器用に包帯を巻き終えると、術符というお札を渡してきた。歌雲先輩が何かを唱えると、何か薄い膜のようなものが、身体を覆った気がした。

「守護の札だ。これを持っていれば多少の『盾』となる。無傷とはいかないけどな」

(これが私を茨から護ってくれるってことなのかな)

「何でもありですね。先輩のポケットって一体どうなっているんですか」

出てくる物の量とポケットの大きさの違いに、物理法則に反していないかと歌雲先輩の制服の上着を見つめる。

「これで完全に怪我をしなくなるわけではないが、気休め程度に持っていろ」

「……質問に答えてくれない」

「行くぞ」

「はい。行きましょう」

 聞くなということなのだろうと、凪紗は質問への答えを諦め、終着点に目を向ける。あの美しい城に辿り着けば、今度こそ全てが終わると思っていた。日常が戻ってくると思っていた。

 ハッピーエンドの寝物語のように。


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