第三章 追憶のいばら②
歌雲紡は自身の血のルーツを頭の中で辿っていた。
歌雲の家系には、『書守』の血が流れていた。書守とは古の時代における所謂『呪い師』から派生し、祈祷師や巫女の血を交わらせた血族だった。そんな彼らはいつの頃からか、ある役割に特化した存在となった。
その役割とは、「書物と人の想いを守る」ことだった。そんな使命を授かった彼らは書物を管理し、愛し、清めた。清めるというのは言葉通りの意味もあれば、呪い師としての意味もあった。
後の世で『カミカクシ』と呼ばれる現象に対処するという意味が。
言葉が力を持つというのは良く聞く話で、この国には言霊と言う言葉まである。それは真実で、言葉というものは生まれた瞬間から『力』を持つ存在だった。そして、音として出される言葉と同じように書物に綴られる言葉にも力は宿った。言の葉を重ね、それを幾重にも束ねた『書』は、大きな力が織り込まれた存在だった。
その力の根源は、人の想いや記憶だ。
書というものは人の想いが強く刻まれた存在で、それは書き記した者の想いだけではなく、読み手の想いすらも刻んでいた。書物は時に人を癒し、惑わし、喜ばせ、狂わせた。あらゆる感情が書物を取り巻き、取り憑いた。紙にインクが染み込むように、それに触れた者の想いを書物は吸い込んだ。
喜び、悲しみ、嬉しさ、悔しさ、そういう人の想いの何もかもを。
そして書物はその力によって自分自身をも傷付けた。書は人の想いを吸い込み、穢れた。そして穢れたものは元のままではいられない。大抵はその穢れはその『書』の上澄みにあり、時と共に薄れては消え去った。しかし、時として強い想いは時間を経ても消えることなく、根を張るようにそこに在り続けることがあった。
そしてそんな強い想いの中にも様々なものがあった。奥深くで眠り続けるただそこにあり続けるだけの想いもあれば、目を覚まし、人の世に干渉する想いもあった。その干渉は神の気まぐれのようでいて、まるで意思があるようでもあった。
眠っているだけの『種』で留まっていれば良かったのかもしれない。あるいは善性のものであれば良かったのかもしれない。そうであれば、書守はこの世に存在しなかったのかもしれない。しかし、書物に眠っている強い『想い』は余計な穢れだ。力の強い『カミカクシ』であればある程、その穢れを清めるための自浄作用を持つ。
種は、主の命を糧に発芽するように眠りを覚まし、人の想い――すなわち穢れが強いものは、主から養分を吸い、最終的には開花する。開花した花はやがては散り、最期には何も残らない。それが主の命を糧にした、浄化だ。それはもしかすると自然の摂理なのかもしれない。だが、それを人間がただで受け入れることはなかった。命を犠牲にすることなく、その書物をまじないで浄化しようとした。それが書守の始まりだ。
そんなことを考えたのは誰かと言えば、当然人の上に立つ人間だった。何よりかつて書物は尊き身分の人間でなければ書物に触れる機会がなかったからだ、ということもあるのかもしれない。理由はなんであれ、書守のルーツは尊き身分の人間を守るための「血の操作」だ。不思議な力を持った血を交わらせ、その力を高めた歴史だ。それは書守の家系の古き歴史だが、時代は変わっても書守は穢れた書を浄化する使命を持ち続けている。
彼らは古の時代においては表舞台で活躍していたが、現代ではその在り方は変わっていた。科学やその他様々な技術が発展し、世界の姿が解き明かされるようになった現代。それでも解き明かすことの出来ない人知を超えた異なる力は表舞台からは隠れ、ひっそりと息をひそめるようになった。
現代では書守の数も随分と減ったが、そんな書守の家系である歌雲家に、書守の力を持って生まれたのが紡だった。
「人の想いを吸い込んで穢れた本を浄化する――それが俺たち、『書守』だ」
紡は自身の家系について語れるだけのことを語り、腰掛けていた石壁から降りて白河凪紗の正面に立った。
「そして――君が『想いの主』だ。種は開花させるための養分を呼ぶように『想いの主』を惹き付け、呼び寄せる。開花直前の今、『カミカクシ』は、想いの主である君を自身の世界に閉じ込めて、穢れを浄化するためにその命を吸おうとしている。これが今の状況だ」
目の前の少女は、あまりにも現実的ではない話に言葉を失っているようだった。しかし、覚束ない足取りで歩き出し、紡の前を通り過ぎて行った。混乱するのは当然だと思った。だから、その背中を視線で追っていたのに、反応が一瞬遅れた。
――ポタッ。
紡の瞳には、滴る赤が映っていた。
――ポタッ。ポタッ。
茨の緑と白い肌、そして血の赤。
(血……?)
紡は目を見張り、目の前の少女を見た。彼女は茨を握りしめていた。目の前にそびえる壁のような茨の一束を。右の掌から赤い雫を滴らせながら、握りしめ続けていた。滴った赤の雫が地面に落ちて小さな血溜まりが作られていく。紡は慌てて駆け寄り、その細い手首を掴んだ。
「――おいっ! 何をしている! 今すぐその手を離せ!」
紡は珍しく大きな声を出していた。彼女は抵抗せずに棘に覆われた茨の蔓から白い手を放す。
「何を考えているんだ! 君は……!」
彼女の茶色の瞳は、声を荒げた紡の方ではなく、赤く染まったその右の手に注がれている。
「……ちゃんと、痛いですね」
まるで他人事のように淡々とした口調だった。
「……当たり前だろう」
ここは眠り姫の絵本の中の世界だ。だが、正しく現実でもある。痛みも感じれば血も出る。
「夢じゃないと言っただろう」
紡がその傷口に触れないように彼女の右手の傷口を確認し始めると、その紡の手に彼女のもう片方の手が乗せられた。
「――続けて」
重なっている手に視線を送る彼女はそう言った。
「続けてください」
「は?」
「話を続けてください。これから何が起こるのか、私はまだ聞いていません。先輩は私に何かをやらせようとしていますよね」
彼女の目は、今度は真っ直ぐに紡の瞳を見つめていた。その瞳の茶色には真剣な色が滲んでいた。
「書を穢すのは人の想いだ。書物になにか意思があるわけではない。あるのは汚れたら綺麗にするという自然の摂理だけだ」
「つまり?」
彼女は下を向く。その表情が小さく動いている気がした。
(この状況でこいつは今、笑っているのか……?)
「これからやることは、この本から穢れ――染みを取り除くことだ」
紡が告げると、目の前の少女はゆっくりと顔を上げ、やがて紡と視線が絡んだ。
「それじゃあ、歌雲先輩は私をこの本から排除しにきた死神なのでしょうか。穢れを浄化するのに必要なのは、私の命なんですよね。……先輩はそれを刈りにここまで来たんですよね」
彼女はどこを見ているのか分からない大きな瞳で紡を見つめていた。色素の薄い瞳は光を受けて硝子のように澄んでいた。まるで人形のような不気味さに背筋にゾクリとし、紡は思わず掴んでいた手を離してしまった。その指にはぬるりとした感触が残る。赤い血が紡の手をも濡らしていた。だが、その不快な赤は紡を少しだけ冷静にした。
「……君の命を糧にする気はない。俺たち書守は、人殺しじゃない」
「じゃあ、どうするんですか」
彼女は感情の抜け落ちた声で紡に問い掛けてくる地面に染み込んでいく彼女の血を見つめ、紡は挑むように不敵に微笑んだ。
「書守の血は特別製だ。俺たち書守の血に一番惹かれるんだよ。カミカクシは」