第二章 陽光は日陰と共にそこに在る⑨
「早く帰る支度をしろ」
「…………?」
そう言われたのは、帰り道で寝てしまったあの日から初めて図書委員の当番をした日だった。週末はゆっくりと過ごしたおかげで、凪紗の体調も少しだけ復調していた。
「聞いているのか。早く帰り支度をしろ。送ってやる」
理解が追い付かなかったことを悟ったのだろう。鞄を肩に掛けている歌雲先輩は少しだけ言葉を増やして声を掛けてきた。何を考えているのか分からない声のトーンは相変わらずだが。
「えっと、今日も送ってくれるんですか?」
「また道端で寝られて車に轢かれでもしたら、寝覚めが悪いからな」
「不吉なこと言わないで下さい! それに、いつもは道端で寝たりなんてしないですよ!」
「この間は寝ていたと思ったが」
「この間が! 特殊だったんです!」
凪紗はかなり無理矢理な売り言葉に買い言葉をしてしまう。
(だって、居眠りをすることがあっても、歩きながら寝ることなんてなかった)
だけど、あの日はもうすぐ家に着くと思ったら、何故か安心してしまったのだ。
「藤原さんに送るように言われている。しばらくは従ってもらうからな」
凪紗はそれ以上何も言えなくなった。
まるで向こうが無理矢理にそうするのだと言うその優しさが分かってしまったから。
「……歌雲先輩」
「なんだ」
「何か今度お礼をさせてくださいね」
「遠慮しておく」
歌雲先輩はこちらを見ることもなく、凪紗の申し出を拒絶した。凪紗は鞄をぎゅっと握り、離れていく真っ直ぐに伸びた背中を追いかけた。
校門を抜けた後、凪紗は歌雲先輩に質問を投げかけた。
「ねえ、歌雲先輩。先輩のこと聞いても良いですか。ほら……会話をしていれば流石に眠ることはないでしょうし」
それに凪紗にはこの先輩に聞きたいことがたくさんあるのだ。
「……」
だけど、相手の反応はない。
「ねえ、先輩聞いていますか。私、このままだとまた寝ちゃうかもしれませんよ」
凪紗はあえて茶化すように言う。心配しなくて良いと伝えるように。
(私はそんなに弱い人間じゃない。ちゃんと笑うことだって出来る)
「……俺を眠気覚ましに使うつもりか」
「うーん。そういうことになりますね」
「君は図太いのかそうじゃないのか良く分からないな」
不服そうな声に凪紗は笑う。
「……それじゃあ始めますね」
それを合図に、凪紗は二歩分の距離から歌雲先輩の横に並んだ。
「まずはそうですねー。先輩の好きな色ってなんですか」
「……黒」
(ちゃんと律儀に答えてくれるんだ)
面倒くさそうな声を出しながら、それでも答えてくれるのが可笑しくて、少し嬉しかった。
「私は青が好きです。真っ青じゃなくて、空の青とか海の青。そういう青が好きです」
凪紗は空と眼下に見える海を指差して言う。今は青より橙だけれども。
「それじゃあ、次は……先輩の好きな動物ってなんですか」
「猫」
「即答……! つまり先輩は黒猫が好きなんですね。ちなみに私は兎が好きです」
「その理論で行くと君は青い兎が好きなことになるな」
「歌雲先輩でも冗談とか言うんですね。ちょっと意外」
凪紗が笑うと、歌雲先輩は微妙な顔をする。その顔を見て、この人は同級生の男子とは普通に笑って話していたことを思い出す。
「次は……そうですね。先輩はお肉とお魚どっちが好きですか」
「肉」
「あはは。ちょっと意外だけど先輩の男子高校生っぽいところ発見しましたね。ちなみに私はどっちも好きで選べません」
「…………」
(うわっ。ずるくないかって顔してる。なんか、ちょっと、楽しくなってきたかも)
「それじゃあ先輩の好きな食べ物はなんですか」
「アイスクリーム」
「ええ、なんか可愛いー」
これまた意外な答えに凪紗は口元に手をあてて歌雲先輩を見上げた。
「うるさい」
凪紗がからかうように笑えば、嫌な顔を表情に乗せる。
(この人は作り物みたいに澄ました顔をして、結構人間くさい人かもしれない)
「私もアイス好きですよ。アイスは人類の大発明ですよね。ソフトクリームは英知の結晶です」
凪紗は不機嫌な先輩の顔を下から覗き込み、これ以上この話題は止めておこうと決める。
「うーん。じゃあ次は、先輩の得意科目ってなんですか」
「歴史と古典」
「うん。なんかこれはちょっと想像通りかもしれないですね」
「じゃあ逆に苦手科目は」
「特にない」
「うわあ。嫌味だけど、先輩が言うとちょっと納得しちゃいますね。前に受験も余裕だって言っていましたもんね。……勉強方法を教えて欲しいくらいですよ」
凪紗も勉強は別に苦手じゃない。むしろ得意だと分類される人間だった。だけどこんな風には言えたことはない。
(やっぱり私、歌雲先輩のこと苦手だなあ)
凪紗は笑顔のまま、そう思った。
「ねえ。先輩の誕生日はいつですか」
「一月三十一日」
「そう言われると確かに先輩は冬っぽいかもしれませんね。私の誕生日は七月二十日ですよ。真夏と真冬で正反対ですね」
「先輩には兄弟はいますか?」
「兄が一人いる」
「それじゃあ私と同じですね。私も兄がいます。五歳上の大学三回生です」
「歌雲先輩はお兄さんとは年は近いんですか」
「いや、もう働きに出ている」
もうすでに答えるのが面倒くさいという顔の先輩に凪紗は質問を続けた。
「……それじゃあ最後の質問です」
気が付けばもう家の近くまで来ていた。この先の横断歩道を渡れば家までもうすぐだ。
「歌雲先輩は……どうしていつも遅くまで図書館に残っているんですか」
黒い瞳がしばらく凪紗の顔を見ていた。二人の間に風が吹いた後、零れた言葉は。
「……仕事だ。君が気にする必要のないことだ」
「でも、先輩のことを知らないといけないと思って。ほら、これから一年間委員会でお世話になるわけですし。今日もこうして送っていただいていますし」
「知らなくていい。気にするな。その辺の通行人とでも思っていろ」
それは斬り捨てるような言葉だった。
(この人は優しいのか、意地悪なのか分からない)
「……それは難しいですよ。……だって…………」
(どう接したら良いのか分からない人は――――『怖い』)
黙り込んだ凪紗を、歌雲先輩は訝し気に見つめている。どう言えばこの人は納得するんだろうかと考える。考えても分からないから凪紗は深く考えずに頭をからっぽにする。空っぽにした頭で人差し指を立てて笑顔で答える。
「ほら、先輩って綺麗だから目に入っちゃうんですよね!」
歌雲先輩はますます訝し気な顔になった。そして凪紗は自分が言った言葉の意味を考えて、顔を一気に紅潮させた。
「……今のは、忘れてください!」
凪紗は羞恥に項垂れた後、がばっと勢い良く顔を上げた。完全に間違えた気がして恥ずかしさに焼け死にそうだが、先程までの重い空気はどこかに飛んでいた。
「今日はここで大丈夫です!」
「おい。また家の直前で倒れるんじゃないだろうな」
「今日は大丈夫ですよ!」
「……」
(信用ならないという目で見られている……!)
「それじゃあ、先輩。スマホ出してください! 家に着いたらメッセージ送りますから。それを確認すれば、先輩はきちんと藤原さんからの言いつけを守ったことになりますから!」
凪紗が早口で言いながらスマートフォンを取り出すと、歌雲先輩も鞄からスマートフォンを渋々というように取り出し、メッセージアプリを立ち上げてこちらに寄越した。
「……先輩、意外と使いこなしていますね」
浮世離れしたこの人も一応スマートフォンを持つ現代人なのだと思い、凪紗は少しだけ冷静さを取り戻す。短い時間で無事に連絡先を交換し終えると、凪紗は歌雲先輩にそれを返した。
「君は俺のことをなんだと思っているんだ」
「なんとなく文明に疎い雰囲気を感じてしまって」
呆れた瞳がこちらを見下ろしていたが、連絡先の交換は無事に終わった。
目の前の信号が青になった瞬間、凪紗は今度こそ逃げるように一歩踏み出した。今度は凪紗が歌雲先輩に背中を向ける。そして白線を渡り切った後に振り返った。
「それじゃあ、歌雲先輩また明日」
「ああ、また明日」
きちんと返事が返ってきたことが、少しだけ意外だった。
家まで戻り、玄関の扉を閉めた後に凪紗はスマートフォンを取り出す。
[ありがとうございました。無事に家に着きました]
そう打って、靴を脱ぐ。部屋に上がったときにもう一度見た画面には、『既読』という文字だけが残っていた。凪紗は壁に背を預けて、苦笑いをした。
「ほんと、愛想がないなあ。あの先輩は」