第二章 陽光は日陰と共にそこに在る⑧
紡は白河凪紗に掴まれたのとは逆の腕を伸ばし、間一髪で目の前で崩れ落ちる身体を支えた。
「白河……?」
「…………」
預けられる体重に問い掛けるが、返事はない。
その身体を両腕で支えながら、呼吸を確かめるように耳を澄ませた。
「……すう……すう」
紡は思わず固まる。その呼吸は一定で深く、気絶したわけではないことが分かった。
「……寝ているのか」
紡は珍しく困った表情を顔に乗せる。
「おい。白河……白河……白河凪紗、起きろ」
何とか起きないものかと声を掛けるが、目の前の少女は起きる気配を見せない。
「勘弁してくれ」
紡は盛大な溜息の後、少し考えてから一度荷物を地面に置き、少女を背中に背負った。眠っている少女を落とさないように気を付け、二人分の鞄を一つずつ肩に掛けて歩き始めた。
少し歩くと、『白河』という表札が見つかり、紡はそっとインターフォンを押した。
「ごめんください。こちらは白河凪紗さんのお宅でしょうか」
[ええ、そうですよ。どうかされましたか?]
向こう側からは朗らかな老齢の女性の声がした。
「白河……凪紗さんがそこで眠ってしまったので、連れてきたのですが」
紡が短く用件を伝えると、バタバタという音の後、すぐに扉が開いた。開かれた扉の向こうには、つっかけを履いた皺の刻まれた優しげな顔の女性が立っていた。その後ろからは、白髪頭の男性が付いてきていた。二人とも心配そうな顔でこちらを見ている。
(彼女の祖父母だろうか)
紡は簡潔に状況を伝えるため、その背で眠っている少女が目の前の老夫婦に見えるように身体をわずかに捻った。
「凪紗さんはこちらに」
彼女の祖母と思われる女性が紡の背に背負われた少女の顔を覗き込む。
「あらあら、本当に眠っちゃったのねー」
その表情が柔和に変わり、間延びした声を出しながら頬に手をあてた。紡はその様子を見て状況説明を始めることにした。
「すぐそこで急に眠ってしまいまして。帰る前から体調が悪そうにはしていたのですが……」
「それで送ってきてくれたのね。どうもありがとう」
事情の呑み込みが早くて助かると思っていると、今度は彼女の祖父らしき男性が口を開いた。
「君の名前は」
「歌雲紡です。波雲高校の三年生です」
「そうか、君が……。ずいぶんと大きくなったね。もう高校三年生か。……それで、その。紡くんは、その……凪紗とはどういう関係か聞いてもいいかい」
「……凪紗さんとは同じ図書委員をしています。彼女の体調が悪そうだったので、司書の藤原さんの指示で帰り道に同伴していました」
「そうですか。……申し遅れました。私は凪紗の祖父の白河晴海です。こちらは妻の瑠璃です。それで、歌雲くんは凪紗のことを――」
「……うぅん」
次は何を質問されるのかと警戒していると、背中から寝心地が悪いとでも言いたげな声が聴こえてきた。紡はなるべく動かさないように少しだけ体勢を整え、彼女を背負い直した。
「早く中に入ってもらいましょう。凪紗ちゃんを背負ってもらったままじゃない」
「そ、そうだな。さあ中に」
慌てて紡を家の中に招き入れる二人を見ながら、玄関に並ぶ靴を一瞬だけ視界に入れた。
(この家には、白河凪紗とこの二人だけで暮らしているみたいだな)
「どこに運んでもらおうかしら」
白河凪紗の祖母が、階段をちらりと見たところから、彼女の部屋は二階にあるようだ。彼ら老夫婦では孫娘を背負ってあの階段を上るのは無理があるだろう。
「もし良ければ、部屋まで運びましょうか」
「……悪いね。そうしてくれると助かる」
彼女の祖父は予想通り少し悩んだ素振りを見せた後、そう言った。
「はい。運んだら、すぐに帰りますので」
「すまないな」
表情から見て相手も紡の考えに気付いたようだった。
「いえ」
紡は手に持っている荷物を玄関に降ろさせてもらうと、彼らの後に続いて慎重に二階に上がった。階段を上がると、すぐ目の前の部屋が彼女の部屋だった。あまりじろじろと見ないように気を付けたが、室内には必要以上の物が無いことが少し意外だと思った。
紡は、慌てて敷かれた布団の上に白河凪紗を降ろした。彼女は静かに寝息を立て続けており、起きる気配はなかった。それでも紡は畳をそっと指で押し、なるべく音をたてないように立ち上がった。
「それでは僕はこれで――」
紡が言いかけると、彼女の祖母は眠っている少女を見ながら囁くように呟いた。
「……凪紗ちゃんは――『眠り姫』みたいよね」
その言葉がやけに紡の耳に残った。
玄関まで戻ってくると、老夫婦は再び紡に礼を言った。
「ありがとう。君みたいな子が凪紗の先輩になってくれて良かった」
大袈裟な言葉を言う白河凪紗の祖父は、真っ直ぐに紡を見ていた。
「……いえ。誰だって寝ている後輩を道端に放置してきたりしないですよ」
紡は玄関にふたつ並んでいる鞄の中から、自分の鞄を手に取って肩に掛ける。
「あなたに頼むのは、違うのかもしれないけれど。凪紗ちゃんは、必要以上に周りに気を遣って、頑張り過ぎちゃう子だから。少しだけでいいの。気を掛けてくれると、嬉しいわ」
「私たちはこの通り、年寄りだ。若い子のことは分からないことも多い。それに学校での凪紗ちゃんのことは聞いた話でしか分からない。だから、君や誰かが傍に居てくれるだけで心強い」
やけに真剣な四つの瞳と過剰な信頼に紡は戸惑う。しかし、最後には小さく頷いた。
「……可能な範囲であれば」
「それで十分です。よろしく頼みます」
「凪紗ちゃんのこと、よろしくお願いします」
二人は紡に向かって頭を下げた。
「……それでは、僕はこれで」
紡は一度礼をとると、玄関の戸を引く。最後に振り返り、頭を下げてその戸を閉めた。
✿
次の日の放課後、凪紗はまた図書館に行った。勿論、お詫びとお礼のためだ。
朝目覚めたとき、何となく嫌な予感がした。そして朝食の席で現実を突きつけられた。シャワーを浴びて朝食の席に着くと、祖母が朗らかに「昨日は凪紗ちゃんの先輩の歌雲くんが送ってくれたのよー」と言った瞬間、凪紗の顔面は昨日とは違う意味で青くなった。そして炊き立てのお米がぽろりと箸から落ちた。
そんなわけで。
図書館のカウンター前で凪紗の頭は深く、とても深く下げられていた。
「歌雲先輩、昨日はありがとうございました。今朝、祖父母に聞きました。この度は先輩には多大なるご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳ありませんでした!」
凪紗は羞恥と申し訳なさで顔を真っ赤に染めていた。
「体調が悪いときは無理して来るな。迷惑だ」
凪紗は頭をより深く下げる。
「本当に申し訳ございませんでした」
「紡君はもう少し言い方を考えましょうね」
歌雲先輩はいつも通りの一見冷たい言葉を吐き、藤原さんは困った子供を見るような目と声でそれを嗜める。凪紗はただ曖昧に笑った。
「いえ、いいんです。本当のことですから」
藤原さんは「でも本当に無理はしないでね」と優しく言ってくれた。
昨日のこともあったため、凪紗は大人しくそのまま帰ることにした。
校舎を出ると世界は橙色に染まっていた。
春の雲が橙に染まる様は手を伸ばしたくなるような優しい景色だった。
凪紗は校舎と校門の間にあるグラウンドのネット越しから、部活動をしている生徒たちの姿を眺める。いくつかの部活動の中に小暮さんが所属している陸上部が練習しているのが見えた。そして、その中にすぐに小暮さんの姿を見つけた。
遠くトラックの上を真剣に走る彼女はいつも教室で話す彼女とは少しだけ違って見えた。凪紗にはそれがとても眩しく輝いて見えた。どこかで見たことがある気がするその憧憬に、きゅっと絞るように息が詰まった。
(どうしてだろう)
理由の分からない懐かしさと切なさが凪紗の胸に湧き上がる。
(胸にぽっかりと空いてしまっている心の穴を埋めたがっているような)
「私はこんな感情、知らないのに」
夜に向かって冷えてきた風に、その呟きは消える。目を細めながらその光景を眺めていると、ゴールラインを駆け抜けた彼女がこちらに気付いた。そしていつもの太陽のような笑顔で、こちらに向かって両腕を大きく手を振ってきた。だから凪紗も小さく手を振り返す。
名残惜しく感じる心と逃げ出したい心に責め立てられながら、校門まで向かう。そして昨日、歌雲先輩と歩いた帰り路を今日は一人でゆっくりと歩いた。




