梶井基次郎「檸檬」を読む1
◇本文
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終 圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
(青空文庫より)
◇評論
「えたいの知れない不吉な塊」が「私の心を始終 圧えつけ」る。それはすぐ後に、「焦躁」・「嫌悪」・「宿酔」と言い換えられる。「不吉」というからには、自分の身に危険や不幸をもたらすような「えたいの知れない」何かを、「私」は感じているのだろう。何か悪いことが起こりそうな嫌な予感だ。
次の、「酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る」。「酒を飲んだら二日酔いになる。それと同じように、酒を毎日飲んだら、二日酔いに相当する時期がやってくる」? 意味が分からない。
この「私」は、酒を飲むときには痛飲するタイプのようだ。だから必ず二日酔いがやってくる。飲酒と二日酔いがセットの人。また、毎日飲酒するようだ。二日酔いは、思考を制限する。何かを考える意欲がわかない。吐き気やだるさを感じさせる。自分の体の中に何か悪いものが存在し、それによって自分の意思が制限されている感覚だ。
「それが」この時「私」に「来たのだ」。「これは」確かに「ちょっといけな」いだろう。「酒を毎日飲んだ」「結果」「肺尖カタルや神経衰弱」になってしまった。でもそれが「いけないのではない」し、「また背を焼くような借金などがいけないのではない」。「いけないのはその不吉な塊だ」。「私」は「毎日飲んだ」結果、「肺尖カタルや神経衰弱」になってしまい、また極貧にあえいでいるが、それらはまだいい。それらを超える「えたいの知れない不吉な塊」が、自らの内に存在し、「私の心を始終 圧えつけて」いる。それへの不安、焦燥、嫌悪により、「私」の「心」は身動きがとれないのだ。
ふだんであれば、「美しい音楽」や「美しい詩の一節」、「蓄音器」から流れる音は、「私」の心を「喜ばせ」てくれたはずだ。しかしこの時には、「不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせ」、「それで始終私は街から街を浮浪し続けていた」。
「えたいの知れない不吉な塊」は「私の心」を「始終 圧えつけ」、「いたたまらずさせ」た。それにより、「始終」「街から街を浮浪し続けていた」「私」だった。
次の場面では、「街から街を浮浪し続けていた」「私」の様子が描かれる。
不吉な塊による抑圧を感じていたが、「何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられた」。「壊れかかった街」、それも、「よそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通り」、「雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする」「風景」「に強くひきつけられた」。これは、後に出てくる京都の町の様子だろう。これに対して、地方の「市」の清浄さも、「私」の心を引き付ける。滅びと清浄という相対するものへの誘惑を、「私」は同時に感じるのだ。
「時どき私は」「京都」の「路を歩きながら、「京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める」。京都という町への忌避感。「私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった」。そこで私が求めるのは、「安静」、「がらんとした旅館の一室」、「清浄な蒲団」、「匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣」だ。先ほども述べたが、京都という都市の「よそよそしい表通り」よりも、「みすぼらしく」「壊れかかった」「裏通り」に「強くひきつけられた」「私」だったが、その一方で、それと同時に、「清浄」や清潔さも求めていたのだった。「私」は、「ここがいつの間にかその市になっている」という空想をし、その「錯覚がようやく成功しはじめると」さらにその架空空間に没入していく。私の錯覚と今、目前にあるのは「壊れかかった街」だが、「何百里も離れた」「市」を空想することで、二つの街と空間が「二重写し」になる。「そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ」。
目の前に厳然と存在する現実への嫌悪感から、遠く離れた場所を空想する「私」。今、自分の心には、「えたいの知れない不吉な塊」がわだかまっており、しかもそれは、「心を始終押さえつけていた」。そのような人は、遠くへ旅立ちたいと思うだろう。しかし「私」は実際にそうしようとはしない。現実と空想の「二重写し」・「錯覚」によって、わずかに「焦燥」「嫌悪」を紛らそうとする。
人は、自分という存在の喪失を最も恐れるだろう。しかしこの時の「私」は、むしろそれを望み、「現実の私自身を見失うのを楽しん」でさえいる。自分という実体の中に厳然と存在する「不吉な塊」から一時でも逃れ・忘れるためには、空想の世界に浮遊するしかないのだった。
(つづく)