第2話:死にたがりな謎の美少女
「ここで何してるんですか?」
女の子に喋りかける勇気は微塵も持っていない。
学校内の知り合いならまだしも、名前も知らない相手。
普段ならば「かわいいな」で済ませていたはずだ。
それなのに、苔ノ橋は軽々喋りかけていた。
自分でも驚きだった。絶対こんなことはできないタイプなのに。
「…………………………」
ただ長い黒髪を持つ少女は黙り込んだままである。
もしかしたら、自分の声が聞こえなかったのかもしれない。
屋上だし、時折、突風が吹いているのだ。
「ここで何してるんですか?」
もう一度尋ねたあと、松葉杖を付きながら彼女の方へと歩み寄る。
だがしかし——。
「…………喋りかけないでください!」
明らかな拒絶。
言われた通りに、苔ノ橋は喋りかけるのを止めた。
だが、歩みを止めることはない。
だって、彼女があまりにも「助けて」と言っているように見えるから。
「こ、こっちに来ないでください!」
来ないでと言われたら、その通りにするしかない。
もしかしたらひとりで黄昏ていたのかもしれない。
松葉杖の歩みを止め、黒髪少女を眺めることしかできない。
「………………」
無言が続いた。
鳥の鳴き声と風の音がよく聞こえる。
少女と目が合った。
彼女は睨んだ目付きを向けてきて。
「こ、こっちを見ないでください」
回れ右しろとでも言うのか、少女は手でシッシと払い退ける。
だが、苔ノ橋剛は動かない。
そのまま数十秒間黙っていると——。
「……はあぁぁぁ〜」
少女は深いため息を吐き。
「……興が削がれました。少しだけ付き合ってください」
◇◆◇◆◇◆
苔ノ橋剛と、謎の制服少女は屋上のベンチに座った。
屋上の隅に設置されている自販機。
そこで購入した『スプラッシュサイダー』を手に取って。
「名前はなんていうんですか?」と、少女は尋ねてきた。
苔ノ橋はポケットからスマホを取り出す。
その動作を行うだけで、ベンチの端に置いてある自分のサイダーを倒しそうになってしまう。ちなみにこのサイダーは少女と同じもので、彼女の奢りである。
無事にメモ帳アプリを開いた苔ノ橋は——。
『苔ノ橋剛』と打ち込み、彼女に見せた。
微妙な空気が漂う。
訝しげな表情で少女が叫ぶ。
「喋ればいいじゃんッ!」
苔ノ橋剛はもう一度スマホをフリックした。
『だって、喋りかけないでって言ったでしょ?』
少女は呆れた表情を浮かべて。
「…………わ、わかりました。喋っていいです」
喋っていい。
そう言われても、どんなことを聞けばいいのかわからない。
とりあえず、こちらも名前を聞いてみるか。
「あの名前は?」
「東雲翼」
単純な自己紹介。
もしもこれが学校の入学式で行われる自己紹介だったら、愛想がない人だと思われることだろう。
もしかしたら、質問には質問しか答えないタイプなのかも。
でも、完璧に名前を覚えた。
彼女の名前は——東雲翼だ。
「東雲さんはどうしてここに?」
病院の屋上。
赤い空から徐々に紫色へと変わりつつある。
もう既に面会時間は終わっているはずだ。
こんな場所で何をしているのだろうか。
それも、制服姿で。
と、苔ノ橋が思っていると、衝撃的な事実を告げられてしまった。
「自殺しようと思ったの。今からここで」
東雲翼の声は弾んでいた。
今から本気で死のうとしているひとのものではなかった。
それにも関わらず、彼女の表情は口元を緩めているのだ。
「じょ、冗談だよね……? そ、それ」
「冗談じゃないよ、ほんとうだよ。ウソだと思うなら、今から飛んでみよっか?」
「だだだだだ、ダメだよッ! そ、そんなことしたら!」
懸命に止める苔ノ橋の反応が面白かったのだろうか。
東雲翼は目を細めて微笑み。
「……ダメか。うん、まぁ〜そうだよね。わかったよ、やめるよ」
ダメだと言われて、素直に聞き入れるタイプなのか。
彼女にとって、自殺とはその程度のものだったのだろうか。
ただやめると言ってくれたから、苔ノ橋は肩を撫で下ろした。
「どうして自殺なんてしようと思ったの?」
核心に触れる質問。
聞いていいのかと迷ったものの気になってしまうのだ。
彼女を見る限り、この世界で生きていくには十分過ぎるほどに美しかったから。その容姿だけで、今後の将来が安泰だと言われてもおかしくないほどに。
「…………手術があるんだ」
東雲翼の声が僅かに震える。
ギュッと力強く握りしめた拳が、スカートの裾を掴んだ。
「わたしね、子供の頃から歌うことが大好きだった。大きくなったら、歌手になってやるって意気込んでいた。だから、いっぱいいっぱい努力した。みんなが知らない場所で、人一倍努力を重ねた。たくさん歌って、色んなひとを喜ばせたいって思ったから——」
でも、と小さな声で呟き、東雲翼は涙を流して。
「その夢が……叶わなくなっちゃうかもしれないッ!」
ほんとう、バカだよ、わたしは。
そう彼女は呟き、俯いてしまう。
前髪が僅かに目元を隠し、琥珀色の美しい瞳は見えなくなる。
「喉を痛めてしまったの。原因は歌い過ぎだって。ほんとう、失格だよね……歌手になりたいのに、喉を酷使してたら……」
歌手という職業柄。
喉を痛めてしまうことは珍しいことではない。
実際に喉を痛めてしまい、以前までの声を出せなくなった歌手は多い。
「手術したら喉がよくなるんじゃないの?」
彼女の苦しみを知らない苔ノ橋剛。
無知無学な彼に、東雲翼は残酷な現実を突きつけた。
「——成功率は5%」
コイントスよりも確率は遥かに低い。
歌手を目指している彼女には、酷な選択だろう。
「だから、東雲さんは諦めたってわけだ。人生を」
苔ノ橋剛は言いのける。
そんな程度で人生を諦めるのかとバカにしている言い方で。
「わたしにとって、歌うことだけが全てなのッ! あなたには関係ないでしょッ!」
至極当然の如く、東雲翼は言い返す。
「歌うことが全てなのッ! その夢が消えたら、その夢が叶わなくなったら……わ、わたしは、どうやって生きていけばいいのよッ! 何も知らないくせに!」
——この男さえいなければ、自殺は成功していたのに。
「わざわざ、今日は制服で来たの。どうせ死ぬなら、正装で死にたいと思ったから!」
——これ以上苦しむ必要はなかったのに。
「やっぱり女の子だから。綺麗な状態で死にたかった。大好きな制服で」
——この日のために、わざわざ制服をクリーニングに出したのに。
「病院の屋上。背景には綺麗な夕陽。絶好のシチュエーションだったのに」
——全部全部、この男のせいで台無しだ。
と思いながら、彼女はサイダーを手に取る。
ゴクゴクと全部を飲み干し、空っぽになったボトルを空へと放つ。
放物線を描いてゴミ箱へと入る。完璧なコントロール。
東雲翼はベンチからゆっくりと立ち上がる。
「苔ノ橋くんだっけ? キミのおかげで死ぬ決心ができたよ」
決意は固まった。
もう死ぬだけだ。
フェンスを乗り越えて、ポンと一歩踏み出すだけ。
何も怖くない。怖いのはほんの一瞬だけ。
「少しの間だったけど、付き合ってくれてありがとうね」
東雲翼は自分に言い聞かせる。
元々死ぬつもりでここに来たのだ。
変な奴が来て、一度はやめてしまった。
でも、正直に話せて、心が多少和らいだ。
さぁ、残るはもう死ぬだけだ。
「————ッ!」
東雲翼は動けなかった。
力強い手に握られているのだ。
この屋上には二人しかいない。
先程、出会ったばかりの少年しか。
「離してよッ! どうして、わ、わたしなんかを引き止めるのよッ!」
苔ノ橋剛とは、何の関係もない。出会ったのは、ついさっきだ。
それにも関わらず、この男は東雲翼を先に行かせようとしない。
「キミには何も関係ないでしょ……? わたしを止める権利なんて……何も」
さっさと死んで楽になりたい。
さっさと死んで悩みを失くしたい。
それなのに、この少年は許してくれないのだ。
「権利はない」
「そうでしょ。なら、やめてよ……わたしを止めるなんて」
「だけど、意味ならある」
「なら、教えてよッ! 何があるの? 出会ったばかりのキミが、わたしを止める意味が!」
東雲翼の悲痛な叫びのあと——。
松葉杖を付く少年は彼女の自殺を止める意味を言いのけた。
「僕は、キミに一目惚れしてしまったんだから」
彼の口から漏れたのは、偽りのない真実の言葉。
色んな男性からアプローチを受けてきたものの、ここまで率直な言葉を受け取ったのは初めての経験だった。
だからこそ、東雲翼は頭の中が空っぽになり、動揺してしまうのだ。
「えっ……? ちょ、ちょ……ちょっと、ま、待って」
当たり前だ。
名前も先程、聞いたばかりの少年に。
一目惚れしたと、本気の顔で言われてしまったのだから。
言わば、愛の告白である。
大変恥ずかしいことを言っているのである。
それなのに——。
「ぼ、僕はキミに本気で恋してる」
苔ノ橋剛は決して引かない。引くはずがない。
ここで引き止めることに失敗したら、東雲翼がこの世界から消えるとわかってるから。
「や、やめてよ……何がひ、一目惚れだって……本気で恋してるとか」
「ウソじゃない! 僕はキミのことが本気で好きなんだ」
「ななな、何を言ってるのよ! さっき会ったばかりじゃない」
東雲翼は苔ノ橋に反論する。
至極当然な反応だった。
「わたしのことなんて……な、何も知らないくせにっ! そのくせに!」
「そうだね、僕は何も知らない。キミのことを何もね」
苔ノ橋は小さな声で呟き、もう一度東雲翼の腕を強く握りしめる。
「だから、今からキミのことをもっともっと知っていこうと思う」
東雲翼はわからない。
この少年が何を考えているのか。
この少年がどうして引き止めてくれるのか。
この少年が本気で言っているのか。
「や、やめてよっ! そんなくだらない冗談はやめてっ!」
東雲翼は理解できない。
突然一目惚れしたと言われても、はいそうですかと引き下がるはずがない。
今日は準備してきたのだ。死ぬための準備をすでに。
それなのに——こんなところで止められて引き下がれるはずがない。
「……わ、わたしには歌しかないの。歌しか……」
で、でもと、奥歯を噛み締めながら。
「で、でも……手術率も低いし……う、歌うことがもう二度とできないかもしれないの……夢を諦めないといけないの……そんな人生耐えられないっ!! わ、わたしには歌うことしかできないのに……それなのに」
東雲翼の存在理由は、歌うことだった。
歌うことでしか、生きがいを見出すことができなかった。
だからこそ、今死のうとしているのだ。自らの命を落とそうとしているのだ。
「今後の人生なんて……歌うことができなかったら……わたしは生きる意味がない。幸せなんてものは一生感じられない。自分と同じくらいのひとたちが歌っている姿を見たら……わ、わたし……た、耐えられないよ……」
彼女は、最後に結論を下した。
もしも、そんな世界があるのならと。
もしも、そんな世界で生きていくのならと。
「こんなの生きてても地獄よ、そんなの」
感情が昂った東雲翼。
誰も近寄らせない圧倒的な威圧感。
彼女の腕を握っていた少年の手がゆっくりと外される。
「そっか。わかったよ」
——あぁ、やっと解放される。やっと自由になれるんだ。
——わたしはもう死んでもいいんだ。この苦しみはもう終わるんだ。
東雲翼はそう思った。そう強く願った。
もう何も考えずに、やっと楽になれるんだ。
だが、次の瞬間——
「きゃぁぁぁぁ!!」
彼女を襲ったのは、大量の水しぶきだった。
何が起きたのか。
苔ノ橋剛がペットボトルのサイダーを開け、東雲翼へと放ったのだ。
プシューという心地よい音とともに、長時間暑いところで放置されたサイダーは勢いよく外へと放出されたのである。
「——な、何するのよッ! ビショビショじゃないッ!」
突然の出来事に地べたへと倒れ込んだ東雲翼は激怒した。
髪型も顔も制服も水浸し。
砂糖が大量に入っているので、肌は若干ヌメリ気さえある。
「ごめん。でも、これしか方法が思いつかなかったんだ」
苔ノ橋はそう言いつつも、悪びれた様子は全然なかった。
寧ろ、怒っている東雲翼を見て、満面の笑顔を示して。
「だけどさ、これでもう死ぬことはできないでしょ?」
東雲翼は、死ぬ準備をしていた。
死ぬのならば、できるかぎり綺麗な状態で死にたかったのだ。
髪型も顔も制服も、全て今日に合わせて準備してきたのに。
それなのに——全部全部、苔ノ橋剛のせいで壊されてしまったのだ。
「……ほ、ほんとう最悪。もうほんとうに最悪……最悪」
東雲翼はそう何度も「最悪」と口にした。
だが、目の前の少年はそんな言葉を完全に無視して。
「もしかしたら、キミの手術は失敗するかもしれない。そうしたら、キミは歌うことができなくなって、夢を諦めてしまうかもしれない。そして、毎日苦しい思いをするだろう」
少しずつ東雲翼の元へと歩み寄ってくる。
と言っても、彼は足を怪我しているので、松葉杖を付きながらだが。
そんな格好の彼を見て、滑稽だと思うかもしれないけど。
「たとえそうだったとしても、いや、成功したとしてもだ」
ゆっくりとではあるが、徐々に東雲翼の元へと近づきながら。
「僕はキミを必ず幸せにする。この世界の誰よりもだ」
絶対に幸せにすると約束する。
苔ノ橋剛はそう呟いたあと、東雲翼へと手を差し伸べた。
「だから……キミは生きてくれ。誰のためでもない。僕のために」
東雲翼からの返事はなかった。
そのかわり、彼女は差し出された手を握り、苔ノ橋剛の胸の中で涙を流すのであった。
「……ううっ!? ううっ……ううう、ううううううう」
自分の力ではどうしようもない状況に陥った子供みたいに。
「どうして……? どうして……!! わたしなの? どうして……わたしから歌を奪うのよ……どうしてわたしから声を奪うのかなぁ……それしかないのに」
今まで溜め込んでいた気持ちを全て浄化するように。
「本当にこの世界の神様って残酷なのね……どこまでも」
ただひたすら、彼女は涙を流し続けるのであった。




