第1話:隠蔽工作とその後の話
三日間の昏睡状態。
それから、目を覚ましたとき——。
苔ノ橋剛は「死ねなかった」と思った。
学校の教室。飛び降りたのは四階。生きていたのが、奇跡だと言われた。
けれど——支払う代償があまりにも大きいものであった。
「痛い痛いッ! 痛ッ、痛いッ痛いッ! 痛いッ……痛いッ!」
全身骨折。
肺は破裂し、骨が変形して肉へと突き刺さっている。
両足は複雑骨折。
全治半年の大怪我を負ってしまったのだ。
呼吸器を口に付けられ、息苦しい生活。ひとりでトイレもできず、毎回ナースに頼むしかない劣等感。
死ぬ気だったのに。
本気で死んでやろうと思っていたのに。
それで全ての苦しみから逃げようと思っていたのに。
苔ノ橋剛は生き長らえてしまったのだ。生き残ってしまったのだ。
ただ生き残った代わりの代償として、今も激痛に打ちのめされている。
少し身体を動かしただけで、思わず発狂したくなる痛みであった。
ただ、不幸中の幸いとでも言うべきか、それは身体に感覚があることだ。
世間一般的には楽しい夏休みが始まっているのに。
外から聞こえてくる蝉の鳴き声が、脳の中でガンガン鳴り響く中。
苔ノ橋剛の地獄は続いているのであった。
それに——。
「ど、どうして奴等は元気にしているんだよ!」
苔ノ橋剛を陥れた人間共——廃進広大と西方リリカは、今も楽しく動画投稿を行っているのだ。カップルチャンネルまで立ち上げ、勢いに乗っているらしい。
意味がわからない。
遺書を書き残していたはずなのに。それも、学校ではなく、自宅にだ。
それなのに——ど、どうして?
そんな苔ノ橋剛の疑問を解決したのは、入院から一ヶ月。
丁度、痛みに少しずつ慣れてきたところだった。
「やっほー! 遊びに来たよぉ〜」
元気な声と共に扉が開き、西方リリカが病室へと入ってきたのだ。
歩くたびに肩まで伸びた茶色の髪が揺れ動き、甘い花の香りが漂ってくる。
夏休みを堪能しているのか、薄手のシャツとラフなショートパンツ姿である。
「もうぉ〜。ほんとう、苦労したんだよ。ひとり部屋だから探すの」
「どどどどどうして……お前がここに?」
「どうしてって……それはどうしてるかなって気になったからだよ」
「嘲笑うために来たってことか? こんな惨めな僕を」
「そういうこと。にしても、超面白いんだけど。やっぱり、ただの豚だったよね」
幼馴染みからの『豚』という言葉には、苔ノ橋の心もグサリときてしまう。
他の相手からならば、何とも思わないのに。
やはり、昔から付き合いというのが大きいのだろうか。
「飛べない豚はただの豚っていうじゃん。ほんとう、何もできない豚だったね」
今すぐに殴りかかりたい。コイツを今すぐに襲いたい。
その余裕ぶった表情を、歪めてやりたい。
二度と、反抗ができないほどに、地獄へと突き落としてやりたい。
「あ、そうだ。これ、何かわかるかな〜?」
西方リリカが見せてきたのは——。
「……ど、どうしてお前がそ、それを持っているんだ?」
苔ノ橋剛が書き残した遺書だった。
自宅の机の中に隠していたはずなのに。
本来ならば、事件の真相を追求する警察が持っているべきなのに。
「こんなくだらないものは要らないと思ってね」
西方リリカは真実が書かれた紙をビリビリと破った。
それから窓を開くと、彼女はパァッと空へと放り投げた。まるで、鳥の餌やりである。空を舞った遺書は、風に煽られ、どこか遠くへと飛んで行った。
「どうしてって顔してるね。あ、そういえば……今、豚くん。何て呼ばれてるか知ってる?」
「はぁ?」
「【ガチ恋バチャ豚】と言われて、ネット界隈で更に盛り上がってるんだよ?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
自分が教室から飛び降りたあと、何が起きたのか。
苔ノ橋剛は情報の整理が追いつかず、ぽかんとした表情を浮かべてしまう。
そんな彼に事実を教えるために、「あ、そうだっ!」と、リリカは手を叩いて。
「アンタが教室から飛び降りたあとの話をしてあげる❤︎」
苔ノ橋剛が飛び降りたあと、教室内はパニックになったようだ。
ただ、その場を治めたのは、廃進広大とその一味であった。
この教室で起きたことは全て何もなかったことにしようと言い出したのだ。
そして——。
「あんたが自分で勝手に死んでいった。発狂して自殺しただけ❤︎ そ〜いうことにしようという話になったの。アンタ一人のせいで、あたしたち若者の人生を潰されるのは嫌だからね。だから、あたしたちは全てそ〜いうことにしたの❤︎」
ズル賢さだけでは絶対に負けない廃進広大。
彼が考えたのは『苔ノ橋剛の遺書』をでっち上げること。
机の中に入っていたという体で、教師陣に発見させるのである。
その内容は——。
「母親を亡くし、先生まで酷い目に遭わせてしまった苔ノ橋剛少年。そんな彼には想い人——西方リリカがいる。以前、強姦未遂まで及んでしまった大好きな幼馴染みに支えてもらおうとするが、彼女の心は廃進広大に奪われている。それが許せなくなって、自殺するに至ってしまった」
要するに、と呟いてから、西方リリカは邪悪に微笑んでから。
「アンタは自暴自棄になって自殺したってことになってるわけ」
ただ、それだけではパンチが足りないと彼等は思ったのだろう。
西方リリカへの気持ち悪いストーカー行為と、彼女の持ち物を今まで何度も盗んできたことを謝罪する旨を書き残したらしい。
「ほんとう、ありがとうね。バチャ豚くん」
感謝なんてされる筋合いはどこにもない。
そのはずなのに——。
「アンタのおかげであたしたちの知名度爆上がり。あのあとね、毎日ニュースで学生飛び降り自殺の件が報道されていたの❤︎ 結果、あたしたち動画投稿者には、好都合なことばかり。おまけに、あたしは醜くて気持ち悪い男に愛されていたということで、周りからは心配される日々❤︎ ほんとう、最高ッ! アンタのおかげで、あまぁーい蜜をいっぱい吸えちゃった❤︎」
あっははははは、と部屋中に嫌な笑い声が響いた。
「でも、ほんとう今まで何の役にも立たない豚と思ってたけど、今回だけは褒めて遣わすわ。でもさ、次、自殺するときは、もっともっとあたしの知名度を上げるように努力してね」
苔ノ橋剛の幼馴染み。
その肩書きを利用して、西方リリカは苔ノ橋剛の部屋を漁ったようだ。
苔ノ橋剛の遠い親戚に対して——。
『もしかしたら、もしかしたら……剛くんはクラス内でイジメが起きていたのかも……ううっ……うう……剛くんは結婚の約束もする仲だったのに……うう』
西方リリカは、他クラスの生徒である。
だからこそ、教室内で起きた飛び降り事件に関与していない。
そう周りの人々を騙して、苔ノ橋剛の遺書を揉み消してしまったわけだ。
「残念だったね、バチャ豚くん❤︎ ほんとう、命かけて、あたしたちを潰そうとしたのに。それさえ失敗して、今もとっても苦しい思いして。助かったあとも、ネットのおもちゃとして、バカにされて❤︎ あたしたちの動画で今後もバチャ豚として、一生お金を作るだけの存在になって❤︎」
赤みが混じる茶色髪の少女は口元を押さえながら。
「バチャ豚くんの人生って、あたしを支えるためにあるのかな?」
人生には勝者と敗者が存在する。
勝者はいつも甘い蜜を吸い、敗者はいつも苦い汁を飲む。
「……っざけるな……ふざけるなよ……」
ベッドに横たわったままだが、苔ノ橋剛は拳を握りしめた。
「えっ? 少し遅めの反抗期?」
「ぼ……僕は絶対お前を、お前らを……ゆ、許さない。復讐してやる」
涙が出そうになった。
人生はなぜこうも上手くならないのかと。
もう少しだけ、この世界の神様は自分に優しくしてもいいのではないかと。
でも、神様が微笑んでくれないなら、自分の力でこの現状をどうにかするしかない。
「許さない? 復讐する? 無理だよ、どうするの?」
小馬鹿にした口調で、昔大好きだった少女は続けた。
「あたしたちは有名人で、アンタはただの一般人じゃん。どうやって勝とうとするの? アンタみたいな醜くて、気持ち悪いだけの存在が」
もう今では、大好きだった頃の面影などない。
もうあの頃のような関係には二度と戻れない。
それを改めて実感しながら、苔ノ橋剛は復讐の宣言を行うのであった。
「……そ、それでもだ。お前らを……ぼ、僕は絶対お前らを許さない。この手で、必ず……お前らを倒してやる。絶対だ。絶対……僕がお前らを潰してやる」
自分よりも格下の存在から反抗的な態度を示されるのは、些か気分が悪いらしい。西方リリカは、苔ノ橋剛を見下した状態で吐き捨てる。
「やれるものならやってみなよ、バチャ豚くん。醜くて、気持ち悪くて、誰からも信頼されない。そんな社会の底辺が。どうやって、この天下の動画投稿者である、あたしたちを潰すのか。ほら、楽しみにしとくから」
◇◆◇◆◇◆
九月が来た。夏が終わったのだ。
それにも関わらず、苔ノ橋剛の人生は何も変化がなかった。
松葉杖を使えば、多少は動けるようになった。
と言っても、まだまだ歩くだけで痛みがあるのだが。
「……ぼ、僕は絶対に生まれ変わってやるんだ。アイツらを潰すために」
全身が痛む? キツイ?
そんなもの関係ない。奴等を徹底的に潰すまでは。
「ばっさー……僕、頑張るよ。だから、早く戻ってきてくれ」
苔ノ橋剛は、今日も生きている。
推しのVtuber『天使のツバサ』がいるから。
残念なことに、今はまだ活動休止中だけど。
「よしっ!」
夕暮れ時、苔ノ橋剛は病室を出た。
別にどこかに行くつもりはなかった。
ただの息抜きのつもりだった。
でも、足はひとつの目的地へと向いていた。
「はぁー。どうして僕は屋上に?」
理由はわからない。
だが、来てしまった以上は仕方がない。
屋上から綺麗な夕陽でも眺めて、病室へ帰ろう。
そう思って、屋上へと繋がる扉を開いたのだが——。
誰もいない。
そう思っていたはずの空間には、既に先客がいた。
扉が開いたことに反応したのか、長い黒髪の少女はゆっくりと振り返る。
「————ッ!」
苔ノ橋剛は自分の目を疑ってしまう。
この世界に、こんなにも美しい少女がいるのだと。
彼の目の前に佇むのは——夕陽を浴びた美少女。
制服と思しき、藍色のブレザーと少し短めのスカート。
遠くからでもわかる透き通った白い肌。
極上の絹を思わせる長い黒髪と琥珀色の瞳。
一目惚れという言葉が存在する。
それは知っていた。
だが、実際にあるんだなと苔ノ橋は強くそう思った。
名前もまだ分からない少女に——。
(……彼女はこの世に舞い降りた天使? それとも女神様?)
苔ノ橋剛の心は一瞬にして奪われてしまったのだから。
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