第三十五話 空白の多い本
「シヴァルディと同様の条件ならば、時の精霊様もあの中庭の石碑に眠っておられると思います」
「それならば私が御目覚めをお手伝いしたい……!」
そうヴィルヘルムはジギスムントの問いに答えると、ジギスムントは興奮した様子でそう言った。
あの石碑に精霊力を注ぎこめば、呼び出すことは可能だ。
問題はその量だ。わたしがシヴァルディと出会った時でさえ、相当量を注いだせいで頭痛を引き起こし、最終的には寝込むことになった。ジギスムントの精霊力量は如何程か知らないが、かなり使うことになるのは間違いないと思う。
「良いとは思うのですが、魔力……正しくは精霊力をかなり使うと思います。わたしの時は頭痛と倦怠感で立っているがやっとでした。領主様の時はどうか知りませんが……」
「……そうだな。……確かにあの時はかなり使いましたので、万全の時にされる方が安全かと」
わたしとヴィルヘルムの言葉にジギスムントはがっくりと肩を落とす。そんなに落ち込むことなのだろうかと思ってしまうが、彼にとってすぐに精霊を救うことができないのが歯痒いようだ。
「……では、明日の朝にさせてもらいます。今日は貴方たちが来ると聞いて、先に道具に注いでしまったので」
「そうしてください」
ヴィルヘルムの一言にジギスムントは大きなため息をついた。その濃灰色の瞳は哀しみを帯びている。
『精霊は悠久の時を過ごすはずの存在です。今は眠りについていますが、一日二日で変わるものではありませんよ』
「お気遣い痛み入ります……」
シヴァルディの励ましにジギスムントは心なしか柔らかい表情に変わった。さすがシヴァルディ。精霊崇拝者には、精霊の言葉が一番だということが如実にわかる。
『……それで、もし良ければそのジギスムント様が言う本を見せて貰えませんか? 今日特にないのならば、そうして貰えるとリアは助かると思います』
「イディファッロータ様、貴方は崇高な精霊様ですので、私を様付けなど必要ありません。どうかジギスムントとお呼びください。それと、資料の場所には今からご案内しますね」
イディはアダン領主のより上の立場だと言われ、多少なりとも困惑している様子だ。しかしジギスムントはそれを正しいと思っているのか、気にする様子もなく、部屋の奥に向かうように促してきた。わたしとヴィルヘルムはその誘いに乗り、席を立った。
部屋の奥は少々広めの廊下と幾つかの扉があった。
中の構造的に見覚えがあり、以前全身を綺麗にされたことが思い出された。あまり良い思い出ではないが、ここはジャルダン領でなく、アダン領だと言い聞かせ、ジギスムントに付いていく。
すぐ近くの扉の鍵を開けさせ、わたし、ヴィルヘルム、ジギスムントの三名で中に入る。鍵をかけるくらい重要な部屋なので、側仕えなどは入れないようだ。わたしもおそらく普段は入れないと思うが、今回は特別だと思っておこう。
「わあ……」
中は小さな図書館のようだった。
しかし、本一つ一つが厳重に管理されており、その貴重さが窺える。
ジギスムントは真っ直ぐに一つの戸棚へと向かい、懐に手を伸ばす。そして、ジャラジャラとした鍵束を取り出し、その一つの鍵を鍵穴に差し込んだ。
「これなのですが……」
ジギスムントは鍵を開け、中に入った一冊の本を持ち出した。表紙は装飾でごてごてしており、見るからに重そうだ。ライトな文庫本とは豪く違っている。
わたしはそれを慎重に受け取り、部屋の中心の机の上に持っていく。その場で開き、支えるには筋力が足りない。……ああ、早く開いて中が見たい!
「……あ、精霊殿文字。あれ?」
急ぎ、表紙を開き、中に目を落とすと精霊殿文字が書かれていた。ビンゴだ。
しかし、不自然なのだ。
『空白が多い……』
イディの言葉にその通りだと思い、わたしは頷いた。
精霊殿文字が書かれた下が異様な空白で空いており、そしてまた精霊殿文字で文章が書かれている。そういう仕様だと言われると納得はできるが、詰めて書かれていないのが不思議だと感じてしまう。
後ろの方も同様だった。ぱらぱらとページを捲ると、文章、空白、文章……、というようになっている。
そして最後の辺りになると、空白のページが何ページか続いていた。
「そのように空白が多く、文字も読めない本なのですが……。オフィーリアは読めますか?」
ジギスムントは困り顔で覗き込んでいるが、わたしはゆっくりと頷いた。
「はい、これは正真正銘精霊殿文字です。……この空白が多いのは、確かに気になりますが」
「相変わらずこれは文字なのか? 模様にしか見えぬ」
「領主様はこの文字の美しさがわからないのですか? この線の多さ、曲線、それでいて整っている……、全てが素晴らしいものです!」
この未知の文字の良さがわからないなんて、と憤慨してしまう。だが、その良さが微塵も伝わっていないのか、煩わしそうにヴィルヘルムは片手を振った。
「わからぬ。それが精霊殿文字ならばさっさと読みなさい」
「その間、私は仕事でもしておきましょうか。……ああ、でも精霊様たちとお話もしたいところですが」
『……どんな話をするというのですか』
そわそわとした様子のジギスムントにシヴァルディは冷淡にもそうきっぱり言い切る。
おそらくヴィルヘルムは仕事をするため自室に戻るので、イディとシヴァルディ両方と話すのは不可能だと思う。しかもイディに至ってはジギスムントに許可を出していないので、話などできないだろう。
シヴァルディの言葉にジギスムントは残念そうに肩を落とした。
「そう言われると悲しいものがありますね。……では資料室にオフィーリアを一人置いておけないので私はここで仕事をすることにしましょう」
え、ここに留まるのですか? と声に出しそうになるが、ぐっと冷静になって押し黙った。
よく考えると、重要な書類がある部屋に他領の人間一人置くわけにはいかない。危機管理面から考えたら当たり前のことだ。
ヴィルヘルムも同様にここで仕事をするらしい。わたしの保護者がここに入れないので、その代わりを務めるそうだ。結局は精霊がこの部屋に揃う結果となった。
二人は外に控えている側仕えたちに、今後の予定を伝え、仕事道具を取ってくるように命じた。
わたしは手持ち無沙汰になるので、遠慮なく精霊殿文字で書かれた文章を読む作業に入った。
なんて書かれてあるんだろう? 精霊のこととか、儀式のこととか、いろいろ書かれてあると良いんだけど。
ページをはじめに戻し、空白の部分を軽く撫でる。植物紙に慣れたわたしにとって羊皮紙など触れる機会がなかったので、不思議な感じだ。植物紙より少し硬い感じがする。
そんな中身は空白が挟まっていることもあり、そこまで読むのに時間はかからなさそうだ。
……でも、この空白の多さは気になるな。そこまで文量もなさそうだし。
しかし読むしかなさそうなので、とにかく気を引き締めて内容に集中することにした。
※ ※ ※
「読み終わった……」
本当に量は多くなかったので、すぐに読み終えた。わたしはボソリと呟くと、はあとため息をついた。
『何か収穫はあった?』
イディがスッと近寄ってきて尋ねてきた。その問いに対しての答え方を少し考えて、首をこてんと傾げた。
「わたしが知りたい内容かと言われると微妙かなあ……。精霊の種類と容姿について書かれてた。あとはこの通り」
そう言ってわたしは真っ白のページを指差した。
内容はジギスムントも知る精霊の名前などの情報くらいだ。精霊王プローヴァはもちろん書かれていないので、もしかすると意味のない作業だったのかもしれない。
イディは真っ白のページを眺めてぽつりと一言。
『うーん、真っ白だね。何だか隠してるみたい』
「隠してる?」
イディの言葉の意味がわからず、わたしは聞き返した。
『王族がくれた資料だから、こんな空白を作る意味があるのかなと思う。ただでさえ、紙って貴重で高価でしょ? あとこの本、年月が経っているはずなのに劣化してないのも気になる』
「確かに……。多少なりとも劣化してもおかしくないよね?」
わたしはもう一度空白の部分を撫でる。保管が完璧な状態だと仮定しても、触ったり読まれたりするはずなので、少しはよれたり、色が変わったりすると思うのだが、まるで新品だ。
そう、わたしとヴィルヘルムがやりとりするためにあるメモ帳なように………………あ。
「これって……」
わたしはダメ元で、本に手を当てて目を閉じ、集中する。目を閉じたので視界は真っ暗だが、ぼぅ、と燃えるような炎が四つ。
ヴィルヘルムの翠色、イディの橙色、ジギスムントの灰色。そして真っ白な炎が目の前にある。
「これ、精霊道具だ……」
『え!』
わたしの呟きにイディは驚くと、彼女も確かめるために焦げ茶の瞳を瞼で隠した。そしてすぐに開かれると、目を丸くした。
『本当だ……、うっすらだけど感じた。精霊道具だ……! 気配も何も感じなかった……』
わたしは後ろを振り返り、ジギスムントの姿を探した。即刻、精霊力を叩き込みたいところだが、持ち主はアダン領主であるジギスムントだ。彼の許しを貰わなければならない。
ジギスムントは奥の方で積まれた書類を一枚一枚に目を通しながら、厳しい顔をしていた。ちなみにヴィルヘルムはその反対側の入り口近くにいる。
わたしは立ち上がると、ジギスムントの側まで早足で近づく。
「ジギスムント様! 申し訳ないのですが、あの本に精霊力を注いでもよろしいですか?」
「……え、どういうことでしょう?」
ジギスムントは手を止め、書類からわたしに視線を移してきた。その目は、この子は何を言っているんだ? という疑心が含まれている。まあそうなるだろう。わたしの説明不足だ。
「あの本はもしかすると、精霊道具かもしれません。なので精霊力を注いで確かめたいのです……!」
「本が?」
「はい! 目を閉じると精霊力を感じたのです」
わたしは本の方を指差しながら力説する。ジギスムントは訳がわからないと言った表情だ。彼はわたしの言葉を確かめるかのように目を閉じるが、その表情は変わらない。
「精霊力など感じませんが……」
ジギスムントの困った声にわたしは驚いてしまう。ジギスムントにはあの炎が見えないというのだ。
「何かあったのか?」
「領主様!」
そんなわたしたちのやりとりが大きかったのか、ヴィルヘルムが仕事の手を止め、こちらへやってきていた。わたしは本の方を指差し、あれが精霊道具だということを主張すると、ヴィルヘルムもジギスムントと同様に目を閉じるが、眉を顰めた。
「見えぬが、本当に精霊道具か?」
「え!」
ヴィルヘルムの言葉に驚嘆の声を上げて、すぐに口を塞ぐ。ヴィルヘルムでもわからないなんて、どういうことだろうか。
困ったわたしの言葉を裏付けるようにシヴァルディが進み出た。
『ヴィルヘルム、リアの言っていることは本当です。微かですが、精霊の気を感じます。……ですよね、イディ』
『はい、シヴァルディ様!』
シヴァルディとイディの言葉に、ジギスムントは疑心の顔のままだが、「精霊様お二人が言うなら……」と渋々ながら了解してくれた。ヴィルヘルムはおそらく信じていない。そんな顔だ。
一応、持ち主の許可を得たのでわたしは本のところまで戻り、両手で本に触れた。
「……流しますよ」
念のため付いてきた男性二人に声かけし、精霊力をかなり多めに注いだ。目を静かに閉じると、純白の炎が精霊力を飲み込んでいっている様子が見える。
思いっきり入れてしまえ、とどんどん注いでいきながら目を開けると、本がふわりと柔らかく光り始めた。とても優しい光だ。
「あ……」
わたしは本の変化を目の当たりにして小さく声を漏らした。どんどん精霊力が抜かれていくが、光は次第に輝きを失い始める。
そして輝きが失せたとともに、真っ白だったページに黄金色の均一の文字が浮かび上がる。
その文字はプロヴァンス文字でもなく、精霊殿文字でもない、別の文字だったのだ。
新しい文字だ!




